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韓国サッカーが初めてワールドカップ(W杯)に挑戦・出場したのは、6・25韓国動乱の傷跡もまだ癒えぬ、1954年の第5回スイス大会だ。W杯への切符を手に入れるため当時のアジア地域予選を韓国は日本と戦った。これがいわゆる「韓日サッカー激闘史」の始まりだ。ホーム・アンド・アウェーの予定だったが、李承晩大統領が日本選手の韓国入国を拒否したため2試合ともアウェーの日本で戦う。
史上初の韓日戦。韓国は極度の緊張から動きが鈍かった。長沼健(現日本サッカー協会名誉会長)に韓日戦史上初のゴールを決められ前半は0−1。しかし、日本に負ければ「玄界灘に身を投げる」覚悟で挑んだ韓国が後半に猛攻を浴びせ5−1の大差で逆転勝ち。第2戦は、2−2のドロー。韓国は1勝1分けで地域予選を勝ち抜き、初出場を決めた。
列車・船・軍用機で 1週間かけスイスへ
スイス大会は54年6月16日から7月14日まで、スイスのベルン、チューリッヒ、ジュネーブ、ローザンヌなど6都市で開催された。
アジアの独立国家として初めてW杯出場の韓国に戦う前から予期せぬ敵が待っていた。6・25韓国動乱による経済難と当時の交通事情だ。
6月9日ソウル駅を出発した選手団は、釜山まで列車、釜山から日本までは船、そこからフランス航空機と米空軍機に11人ずつ分乗し、スイスへ向かった。一行がスイスに到着したのは出発から一週間後の6月16日深夜。実に試合開始十数時間前である。加えて、狭い軍用機での移動に体力を消耗した韓国は、時差というハンデも抱えながら、試合に臨んだ。
初戦の相手は「マジック・マジャール」と呼ばれたハンガリー。50年代初頭、3年間32戦無敗の伝説的な記録を残した強豪だ。6月17日午後3時キックオフ。グラスホッパースタジアムには3万5000人の大観衆が、東方の小国と世界最強ハンガリーとの対戦を興味深く見守った。
「マジック・マジャールがいつ敗れるのか」。当時、欧州のサッカーファンはこの話題で持ちきりだった。4年間無敗。それを聞きつけたイングランドは地元にハンガリーを招いて連勝をストップさせようとしたが3−6の完敗。さらに敵地に赴いたブタペストで1−7の惨敗。イングランドですら子ども扱いのこのチームに、韓国は初戦で挑んだ。
雷の様なシュート、 世界の壁を痛感
試合が始まるや否や、伝説の名選手として名高いプスカスを中心としたハンガリーが、まさに魔法のごとき強力な攻撃力で韓国を襲い続ける。
当時のGK・洪徳泳は「ハンガリーのシュートは大砲のようだ。特にプスカスが蹴ったボールは全く見えず、ポストやバーに当たると雷に打たれたような音がした」と後に回想しているが、結局、韓国は0−9というW杯最多ゴール差で惨敗を喫した。だが、試合終了後、ハンガリーのグスタフコーチが最後まで決して試合をあきらめずに戦った韓国の精神力を、「獅子のように勇敢だった」と称賛した。
5日後、ジュネーブでトルコと対戦した韓国は、長旅の疲れと初戦の負傷から主力を欠き、サブメンバーを大量に投入せざるをえなかった。その結果、またしても0−7と大敗。2戦2敗16失点という不名誉な記録を残した。地元紙に「W杯へサッカーを学びにくるもんじゃない」と酷評された韓国W杯デビューは散々な結果だった。
2連敗を喫したものの記念すべき初出場は世界レベルのサッカーを実体験したという点で大きな意味を持った。これを機に、韓国サッカーは「アジアの盟主」へと駆け上がることになる。
(2002.02.12)
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