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■スウェ−デン大会
(第6回・58年)
「アジアの虎」と呼ばれた韓国だが 申請書類紛失で 予選出場のがす
アジアの独立国家として初めて第5回スイス大会に出場した韓国は、56年から始まったアジアカップで2大会連続優勝を果たすなど、アジアサッカーの盟主としての地位を築きつつあった。
また、60年代以後、ムルデカ杯、キングス杯、アジア大会など、アジアで行われた各種大会で数多くの優勝を飾り、名実共にアジア最強の実力を備えると、この頃から韓国選手の驚くべきスピードと精神力に敬意を表し、他のアジア諸国が韓国代表を「アジアの虎」と呼ぶようになった。
しかし、数々の栄光とは裏腹に、スイス大会で初出場を果たして以来、韓国にとってW杯は「夢の舞台」となってしまった。86年メキシコW杯出場まで実に32年間。度重なるアクシデントやルールの壁に泣かされ、韓国は常にアジア予選で敗退することになったのである。
58年の第6回スウェ−デン大会。前回の汚名を挽回しようと強化に乗り出した韓国だったが、サッカ−協会のW杯担当職員が申込み書類を紛失したことにより、アジア予選出場の機会すら失うという失態を晒してしまった。
■チリ大会 (第7回・62年)
再び日本を撃破するも、アジア枠「0・5」
でユーゴに敗退
続く62年チリ大会のアジア予選。永遠のライバル日本との宿命的な対戦が待っていた。60年11月6日、ソウルで日本との激突が繰り広げられた。54年スイス大会予選でホ−ムの利点を生かすことができず、韓国に手も足も出なかった日本は"打倒韓国"を目指し、気合い十分だった。
しかし、当時の韓国の実力はアジアでは群を抜いていた。やや堅さの見られたソウルでの初戦を2−1で逃げ切ると、続いて東京で行われた第2戦は、必死で追いすがる日本を退け2−0で完勝した。
本来なら韓国が晴れてアジア代表としてチリ大会に出場するはずだった。しかし、その韓国の前に欧州予選に出場するはずのユ−ゴスラビアが立ちふさがった。
アジアのサッカ−レベルが低いと判断したFIFAが、ユ−ゴスラビアをアジア代表との変則プレーオフに編入させてしまったのである。 これに怒った当時の朴正熙大統領は、共産国家であるユ−ゴスラビアとの試合に猛反対し、W杯への不参加を表明した。
しかし、大韓サッカ−協会会長の説得でユ−ゴスラビアとの試合に挑むことになった。しかしこのゴタゴタによって韓国選手たちが混乱、また、練習不足もあってアウェイで1−5、ホ−ムでも1−3と完敗。W杯2度目の出場の道が閉ざされてしまった。
(2002.03.04)
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