MINDAN
在日本大韓民国民団 2002W杯

W杯挑戦史


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▼イタリア大会(第14回・1990年) =上=

前回善戦で台風の目に
最終予選では初の南北対戦

 


88年プロリーグ優勝チーム監督に代表監督の座

  イタリアW杯アジア予選を1年後に控えた88年初頭、「アジア初のW杯2大会連続出場」をめざし、韓国サッカー協会は、「88年プロリーグ優勝チーム監督に代表監督の座を与える」という仰天プランを発表した。

 世界でも類を見ない、この代表監督選出法はプロリーグに国民の関心を集めつつ、W杯への関心をいち早く呼び起こす起爆剤となった。

自信満々の韓国攻撃陣だったが、初戦のベルギー戦では無得点に終わった
(写真は崔淳鎬とシーフォ)

 協会の狙い通り、プロリーグは多くのファンの注目を集めた。どちらも韓国サッカー界を代表するスターである、浦項製鉄(現・浦項スティラーズ)の李会澤監督と現代(現・現代蔚山)の金浩監督が最後まで代表監督の座を賭けて争った。その結果、最終的には浦項がリーグ優勝を果たし、李会澤が代表監督の座を手にした。

 韓国はアジア予選で順調な勝ちっぷりを見せた。シンガポール、マレーシア、ネパールとの1次予選に全勝した韓国は最終予選をUAE、カタール、中国、サウジアラビア、そして北韓と戦うことになった。シンガポールでの総当たりだ。

 このとき、初の南北対戦が実現した。89年10月16日だ。初戦、カタールに0−0で引き分けた韓国は勝ち点3をねらうため果敢に攻めた。

 前半18分に黄善洪が決めたヘディングシュートを韓国が守りきり、結局、初の南北対戦は韓国が1−0で勝利した。

 韓国は3勝2分け勝ち点11で1位となり、2位UAEとともにアジア代表となった。

 アジア初のW杯2大会連続出場を果たした韓国は、メキシコ大会からの主力崔淳鎬と金鋳城に建国大学で活躍中の黄善洪(現・柏レイソル)を攻撃陣に加えた。鄭龍煥を軸にしたディフェンスも当時のアジアでは鉄壁を誇っていた。

 メキシコ大会を経験した8人に成長著しい若手を加えた韓国は李監督が「ベスト8を狙う」と自信満々だった。

「アジアの神秘」だったが、赤い悪魔・ベルギーに完敗

 ベルギー、ウルグアイ、スペインと同組に入った韓国は前回同様、強豪揃いの厳しい組だ。しかし、メキシコ大会での活躍でイタリアのマスコミは韓国を「台風の目」と予想。特に金鋳城は「東洋の神秘的な有望株」と大会前から注目された。

89年10月16日、シンガポールで行われたイタリア大会・アジア地区最終予選で、初の南北対戦が実現した (写真は試合前に握手する韓国の主将、鄭龍煥=左=と北韓の主将、尹ジョンス)

 また、韓国チームが宿泊するホテルの支配人に「ベッドがあまりも小さい」と抗議したことも話題を集めた。これは当時、韓国代表の平均身長が180pを越えるのを自慢するパフォーマンスであり、このようなオーバーアクションは「アジアの神秘」ともてはやされ、英国やフランスのTV局までもが韓国の初戦をテレビ中継することになった。

 初戦の相手は「赤い悪魔」と呼ばれるベルギー。攻撃陣に絶対の自信を持っていた韓国も、いざゲームが始まると、それが過信であったことを思い知らされる。当時世界最高のディフェンダーと恐れられたシ−フォを軸に、欧州予選をいち早く勝ち抜いたベルギーの実力は、アジアレベルの比ではなかった。

 また、情報不足もさることながら事前の戦術分析、いわゆる「スカウティング」の能力が著しく劣っていた韓国は、ベルギーの戦術を全く把握してなかった。その証拠に、ゴール前に長いボールを蹴り込む韓国の単純な攻撃は、ベルギーDFに78回もパスカットされてしまう。

 後に車範根は「シ−フォをマークできなかったことが試合に敗れた原因だ」と語ったが、高い下馬評とは裏腹に何の見せ場も作ることができず0−2と完敗した。

 試合後、敗戦にうなだれる選手たちは、逃げるようにピッチを後にした。韓国を「台風の目」と予想したイタリア紙も、翌日には手のひらを返したように「帰ってドリブルの練習をしなさい」と酷評する有様。チーム関係者は恥ずかしさから、顔を上げることができなかったという。

(この項次号につづく)


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