第103周年三一節記念式典

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新型コロナの影響で縮小開催
 民団愛知県本部(朴茂安団長)の「第103周年三一節記念式典」が3月1日、民団愛知県本部で開催され、来賓として駐名古屋大韓民国 朴先哲総領事、金承煥領事と本部役員合わせて30人が参加しました。
 今回は、新型コロナのオミクロン株拡大を受け、感染防止に万全の対策を取るため、会場オフライン参加を本部の一部役員に限定して開催しました。さらに感染防止に関しては、ソーシャルディスタンスを充分に保持しながら、体温測定、アルコール消毒、マスク着用など対策を万全にした上で行いました。

YouTubeでライブ配信も
 また、一般団員やその他の役員向けには、動画サイト「YouTube」で式典の様子をライブ配信しました。感染の危険性がない参加方法として有効であり、今後も活用していく予定です。
 ※式典動画はこのページの下部もしくは【第103周年三一節記念式典 動画】からどうぞ

 記念式典では、名古屋韓国学校の李孝心総括主任による「己未独立宣言書」の朗読、朴先哲総領事による文在寅大統領の記念辞代読や、民団愛知県本部の朴茂安団長のあいさつに続いて、決議文の採択が行われました。

第103周年 三一節 決議文
 本日、第103周年3.1節記念式を挙行した我々は、民族の自主独立と自尊を希求し立ち上がった先烈たちの崇高な愛国精神と3.1運動の今日的意義を深く刻み、その不屈な民族意志を確認した。
 我々は在日同胞の権益擁護と民族正体性の確立と後継者育成に一層努力し、未来志向的な韓日関係構築のために韓日友好増進の架橋的役割を果たしていくことを誓いながら次の通り決議する。

一. 我々は自由と平等を渇望した3.1精神を継承し、韓半島の平和と繁栄に寄与する。
一. 我々は在日同胞社会の和合と民族正体性の確立に注力し、未来を担う後継者育成に全力を尽くす。
一. 我々は在日同胞の生活と権益を守り、多様な文化が共存する共生社会の実現のために尽力する。
一. 我々はヘイトスピーチを根絶し、韓日友好増進に積極的に寄与する。


2022年3月1日 第103周年3.1節愛知県記念式 参加者一同


三一独立運動とは?
1919年3月1日から約1年間にわたって続けられた、日本帝国主義の植民地支配に反対した韓国(当時は朝鮮)「民族」の独立闘争。1910年の「併合」後、韓国人民は日本国帝国主義の苛酷な弾圧と搾取によって、悲惨な運命にさらされました。そして、韓国人民の抵抗はしだいに活発化しはじめました。面事務所(役所)や憲兵分遣所を襲撃する農民暴動がおこり、1917年以降労働組合の結成がすすみ、1918年からは労働者のストライキも急増しました。それにロシアにおける社会主義革命の影響が加わり、第一次世界大戦後の世界的な革命的雰囲気のなかで、韓国民衆の独立運動にあらたな高揚をもたらす契機となりました。

2.8が3.1の導火線に
1919年2月8日東京留学生による独立宣言発表(二・八独立宣言)を受け、3月1日、韓国国内における「民族代表」33人により、京城(現在のソウル)・パゴダ公園で独立宣言書が朗読されました。すると韓国民衆の憤怒は、日本の「帝国主義侵略者」に対する全民族的な反日蜂起となって爆発しました。ソウルでは数十万の群衆が大規模な反日示威を決行し、「独立万歳」を絶叫しながら街頭に繰り出しました。三一独立運動の烽火はまたたく間に全国津々浦々に燃ひろがり、満州と沿海州・日本・ハワイなど韓国人の居住する海外各地にも波及していきました。民衆の激烈な示威闘争におそれをなした日本の「侵略者」は、警察・憲兵・軍隊を総動員して示威群衆にたいして銃弾をあびせ、多くの愛国者を虐殺しました。しかし、民衆による大衆的な示威運動は、血の弾圧にも屈せず、怒涛のように前進しながらその闘争を高めて行きました。民衆は斧や棍棒で「日帝」の憲兵分遣所・警察機関・地方行政機関などを襲撃破壊し、一部の地方では武装闘争も展開しました。この闘争は1年間もつづき、200万人以上の民衆が参加しました。そのため「日帝」の統治機関からは一時完全に麻痺状態に陥いりました。韓国民衆の挙族的な闘争に直面してあわてふためいた日本の帝国主義者らは、韓国駐屯の日本軍に加えて、4月中旬からは日本からも軍隊を増派して、非武装の民衆に「暴圧」を加えました。

水原・提岩里教会における虐殺
1919年4月におこった水原虐殺事件はこの一典型です。これは日本人の官憲がソウル近郊の水原付近にある提岩里教会に村民を監禁して放火し、必死に逃げ出す村民を無残にも射殺した事件です。日本人の官憲はその後も3日間にわたって放火と虐殺をつづけ、数千名を殺りくし数百の民家を焼き払いました。ソウルにおいては蜂起参加者を十字架台にはりつけ虐殺しました。こうした事件は全国各地で繰り返されました。

おびただしい数の犠牲者が…
3.1独立運動で犠牲になった民衆は1919年3月から5月までの3カ月間だけでも死者7,509名、負傷者1万5,961名、被検挙者4万6,948名に達しました(総督府発表)。負傷者や被検挙者のなかから、その後拷問などで多数の死者が出たことを計算に入れると虐殺された人の数はずっと多くなります。結局、三一独立運動は韓国民衆の頑強な闘争にも関わらず、成功するには至りませんでした。しかし、この闘争は韓国民衆の反日民族「解放」闘争史上、輝かしい地位を占めるもので、多くの教訓を残しました。この騒動を通じて韓国民衆は「植民地」民族の解放闘争は、必ず民族の主体的力量と組織に依拠してのみ、成功するという教訓を体得しました。


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