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郷里で行われた尹東柱の葬儀 |
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胸に迫る清冽さ
わずか27歳で獄中死 韓国併合条約が調印され日本の植民地支配が始まった1910年から7年後に生を受け、日本が敗戦し、祖国が解放されるわずか半年前の1945年2月16日、27歳の若さで、福岡刑務所で獄死した詩人尹東柱。その短い生涯はすべて民族の暗黒期の中にあり、その先にくる光復の喜びの日を迎えることは出来なかった。
しかし、暗鬱で過酷な時代の中でも必ず朝が訪れることを信じ、母語朝鮮語で一途に書き続けた清冽な詩。尹東柱の短い生の証のように残された数少ない詩は、没後70年の歳月を経た今、国境を越えて、私たちの心に歴史の痛みを呼び覚まし、詩にこめられた平和への切なる願いが多くの人々の共感を呼んでいる。
今年、韓国では、カン・ハヌル主演の映画「ドンジュ」が上映され、多くの人が足を運んだ。また1948年に出版された尹東柱の初めての詩集「空と風と星と詩」の復刻版等がセットで発売され、ベストセラー一位になった。
日本でも尹東柱の詩を愛する人が静かに増えている。福岡では1994年に「福岡・尹東柱の詩を読む会」がスタートした。京都では「同志社大学コリア同窓会」が1995年に同志社大学構内に尹東柱詩碑を建立し、毎年追悼の集いを継続している。東京池袋の立教大学では2008年より「詩人尹東柱を記念する立教の会」が追悼の集いを開催してきた。立教大学には「尹東柱国際交流奨学金制度」がある。
尹東柱は1917年に現在の中国延辺朝鮮族自治州明東村で生まれた。地元の小学校と中学校を卒業後、京城(ソウル)にある延禧専門学校(現・延世大学校)を卒業し、日本の立教大学と同志社大学に留学した。
尹東柱は日本留学中もたくさんの詩を書いていたと思われるが、詩稿は逮捕時に特高(特別高等警察)に押収され行方が分からなくなっている。
留学中に書かれた詩の中で、立教大学のマークの入った便箋に書かれた5篇の詩だけが、友人姜処重氏によって守られ奇跡的に残された。
その中の「たやすく書かれた詩」では戦時下の東京で自らが置かれている朝鮮民族としての立場を「六畳部屋は他人の国」という言葉で毅然と表現した。自身が住む下宿部屋を「他人の国」と表現したこのひと言に、日本に留学した朝鮮の学生の複雑な胸中と朝鮮民族としての矜持が見事に表現されている。
1943年7月14日、同志社大学在学中の尹東柱は治安維持法違反の疑いで逮捕された。下宿の机の上には帰国のための切符が残されていた。翌年の3月、2年の刑が確定し、福岡刑務所に収監された。
1945年2月16日未明、獄中の尹東柱はひと言大声で叫び絶命した。異郷の地ゆえに、最後の言葉は誰にも届かなかった。日本の敗戦で民族が解放されるわずか半年前のことだった。
1948年、家族や友人たちによって残された僅かな詩が集められ、初めての詩集「空と風と星と詩」が刊行され、この時初めて詩人という呼称を得た。
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尹東柱全詩集(伊吹郷訳)刊行(1984年)の祝席で尹一柱元成均館大教授と語り合う茨木のり子さん(右)=尹仁石氏提供 |
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信じた「言葉の力」
茨木のり子の姿勢と通底 茨木のり子は尹東柱の詩を愛し、出版には至らなかったが、詩の翻訳を続けていた。著書「一本の茎の上に」(筑摩書房)では尹東柱の弟尹一柱氏と甥尹仁石氏について
「時移り、一柱氏はりっぱな<人>に成っても、兄の仕事を跡づけ、今見るような形にしてくれた人で、ゴッホにおける弟テオのような役目を果した。たった一度お目にかかったきりで、1985年に逝ってしまわれたが、その印象はきわめて鮮かで、私の視た最高の韓国人の一人に入る。
子息の尹仁石氏は、留学生として日本に来ていて、現在はソウルへ帰国し、成均館大学・建築工学科の助教授になられた。中村屋でライスカレーを食べながら話したのだが、その折、きれいな日本語で、『(容姿が)ぼくは父にはまさると思っていますが、伯父(尹東柱)には負けます』と、いたずらっぽく笑った。静かだけれど闊達で、魅力的な若者だった。そしてまた、『伯父は死んで、生きた人だとおもいます』とも言われた。私も深く共感するところだった。」と記している。
茨木のり子は尹一柱氏のことを最高の韓国人の一人と表現したが、子息尹仁石氏についても同様に感じる。尹東柱を伯父に持ち、父一柱氏亡き後、遺族代表として遺品の管理や対外的な対応を続けてこられた。穏やかで温かな人柄と高潔な思想は尹家に代々伝わるものだと感じられる。
尹仁石氏の人柄について、尹仁石氏に出会った韓国の研究者が尹東柱もあのような人であったのではないかと感じると語ったが、私もまったく同感であった。
学会で来日されお会いした際、2006年に亡くなった茨木のり子の墓所を探してほしいという依頼を受けた。
茨木のり子のお墓のことは鶴岡の「茨木のり子『六月の会』」高橋久史氏のホームページに出会い、高橋氏にお教え頂き、尹仁石氏にお知らせした。後に尹仁石氏から、学会で来日した際に日帰りで鶴岡に行き、墓参することが出来たというメールを頂いた。
菩提寺である浄禅寺住職、西方信夫氏からは、尹仁石氏は下の道にタクシーを待たせて、墓参をされるほどの強行軍だったと伺った。
墓参の後、尹仁石氏から届いた「茨木のり子先生のお墓と叔父の墓とが海を挟んで向き合っていて、話し合っておられるのではないかと感じました」というメールの言葉が心に強く残っている。 詩人茨木のり子は尹東柱より9歳若い。戦中には軍国少女として学生時代を送り19歳で終戦をむかえた。作品「わたしが一番きれいだったとき」では、軍国主義が掌を返したように否定され、自由で民主的な新しい風が一気に流れ込み、社会の価値観が大きくずれていく姿を冷静に見据えながら、その戸惑いと決意を詩に詠んだ。戦後一貫して時代の価値観に流されない普遍の価値を追求しながら詩を書き、発信し続けた詩人だ。
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立教大学の夏休みに帰省した時の尹東柱(後列右)。前列中央は従兄の宋夢奎 |
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叙情と自由の輝き
普遍の価値を求めて 尹東柱は強い民族意識を心の裡に秘めてはいたが、激しい独立運動に身を投じたわけではなかった。書いた詩は、内省的なものであり、声高な抵抗詩ではない。しかし使用を禁じられた朝鮮語で詩を書き続けたこと自体、静かだが強い抵抗であった。
戦前の日本の国体思想のもとでは、自覚的に思想を持つこと自体が悪とされた。尹東柱のような豊かな知識と思想を持った留学生は官憲側から見れば、非常に恐怖を感じる存在であったに違いない。尹東柱の真っ直ぐな生き方は、何よりも強力な抵抗であったのだ。
当時、日本の戦況が悪化の一途をたどる中、治安維持法による弾圧は熾烈さをきわめた。1941年5月に施行された改正治安維持法は全面的に厳罰化し、「準備行為」を行ったと判断すれば検挙出来たため、事実上誰でも犯罪者に仕立てることが出来た。尹東柱はこの悪法によって不当に逮捕された。個人の人権が尊重されない全体主義の時代の恐怖がそこにあった。
尹東柱は延禧専門学校卒業を機に詩集を発行したいと願ったが、時局の影響もありかなわず、19篇の詩を載せた手書き詩集3部を作った。その序に記されたのが有名な「序詩」だ。
「序詩」は厳しい時代の中で、与えられた生をよりよく生きるための理念を一篇の詩として見事に昇華させている。
日本の侵略によって苦しむ同胞への思い、失われんとする朝鮮文化への愛惜、敬虔なクリスチャンとしての深い祈りが込められているが、抵抗詩として、あるいは宗教詩として一面的には描かなかったためにすべてを超越して、普遍的な価値を持つ作品になった。
行間ににじむ自然への畏怖の念、限りある生命に対する深い慈しみ、崇高な自己犠牲の精神、その神々しさに、誰の胸にも清らかな光が射すことだろう。
詩を書くことは自己省察であり、それは「哲学する」ことである。哲学の根本は、日々の暮らしの中で、よく生きるために何が真なのか、何が善であるのかを深く思考し、普遍性をめざすことだ。
尹東柱の詩を読む時、清らかな抒情の質とともに、外なる権威やひとつの時代の価値にとらわれない自由な輝きがあることに気づかされる。
「私」という個からの出発にキルケゴールを熟読していた尹東柱の実存主義的な思想がみられる。
また、尹東柱の詩の魅力として、詩と生とが一致する稀有な詩人だということがいわれる。詩の土台に良心にそった清らかな生があり、それが気品と清明な叙情性を生み出す源泉になっているのだ。
普遍的な了解が得られない主張は早晩壊れゆく運命にあるが、常に普遍の価値を求め、ゆるぎない思想をもっていた尹東柱が残した作品は70年以上の歳月を経ても決して色褪せることがない。
ここに尹東柱の詩と生涯が今日を生きる私たちの心をゆさぶり、大きな影響を与え続ける理由があり、詩人茨木のり子が戦中の体験を通して実感し、詩で表現してきたことと共通性があるのではないだろうか。
二人の詩人が存命なら、大きく変わりゆく現在の社会状況を目にして、どんな詩を書き、どのような言葉を社会に向けて発信したであろうか。
詩人尹東柱没後70年、詩人茨木のり子没後10年を経た。二人の詩人は、詩の言葉は決して言語世界に留まるのではなく、現実社会の問題に対して立ち向かうだけの力があることを示してくれた。
二人の詩人が残した詩作品には多くの示唆があり、今日を生きる私たちにとって、ますます大きな存在になりつつあると言えるだろう。
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序 詩(日本語訳) 死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥無きことを、 葉に立つ風にも 私は心苦しんだ。 星を詠う心で すべての死にゆくものを慈しまねば そして私に与えられた道を 歩みゆかねば。 今宵も星が風にさらされる。 (1941年11月20日) |
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楊原 泰子(やなぎはら やすこ) 尹東柱の故郷をたずねる会会員。詩人尹東柱を記念する立教の会会員。白樺教育館学芸員。詩人尹東柱の足跡調査と蔵書探しを続けている。毎年2月に立教大学チャペルで尹東柱追悼の集い「詩人尹東柱とともに」を開催してきた。立教の会会員とともに、尹東柱の詩と生涯を広く伝えるための活動を行っている。
(2016.8.15 民団新聞)