掲載日 : [2016-01-27] 照会数 : 3897
ハンセン病理解求め22年…「資料館」語り部金相権さん
[ 金相権さん(写真は国立ハンセン病資料館提供) ]
差別と偏見の克服
当事者の視点から
金相権さん(85、多磨全生園入所者自治会会長)は東京・東村山市の国立ハンセン病資料館(成田稔館長)を拠点に今日まで22年間、語り部としてハンセン病の歴史をひもとき、正しい理解を訴えている。月間の予定表を見せてもらうと、日取りがびっしり。
来館者が10人以上まとまると、語り部の出番となる。もう一人の語り部、平沢保治さんと合わせると、これまでに少なくとも2200団体、約15万人以上を対象に語ってきたという。
平沢さんが子どもたちを対象としているのに対し、金さんは主に大学生や人権擁護委員、教育委員、看護学生、司法修習生などを相手にしてきた。資料館以外の出張講演では200人から多いときは1200人を前に語ることも。
金さんがもっぱらのテーマとしているのは強制隔離という国の誤った政策が残した差別、偏見の克服。かつては巡視もおり、職員や一般の人たちが、患者を刑務所の囚人と同じような見方をしていたという。病気が回復したいまも、「親や兄弟姉妹と一緒に暮らすことができない」「死んでも故郷の墓に埋葬してもらえない」という悩みを抱えている元患者は多い。
金さんは「ハンセン病のこと、知ってしまえばたいしたことないのに。知らないこと、無知がいちばん悪い」と強調する。
「大げさになるから」と金さんは自らの苦労については多くを語らない。それでも、外国籍ゆえにかつては公的年金の支給を受けられなかったことをいまも忘れられない。
「昭和35年ごろから年金が出るようになった。盲人は1500円。『今日は年金が出るからみんなで汁粉会をやろう』となると、年金の出ない人は雑居部屋を抜け出してトイレでじっとしていたり、用もないのに外でうろうろしたり」。
金さんは1931年生まれ。先に日本に来ていた父親を訪ねて母親と共に2歳半で渡日。1945年の東京大空襲で手足を火傷し、14歳で発病した。群馬県にある栗生楽泉園を経て1964年に現在の国立ハンセン病療養所多磨全生園に転園してきた。
90年にはハンセン病資料調査会の委員となって全国の療養所を回って、高円宮記念ハンセン病資料館建設のために奔走した。語り部活動は93年の開館と同時に始めた。
最近は全生園で生きてきた確かな証しを残そうという「人権の森構想」にも取り組んでいる。残された史跡を復元し、ハンセン病以外の難病の人や障害者に対して偏見を持たない啓発の場にしていこうというもの。
金さんは「目の黒い間は語り部を続けていく」と話している。
(2016.1.27 民団新聞)