掲載日 : [2016-05-25] 照会数 : 4612
<寄稿>古代の海岸線と高麗建郡史…中野不二男
[ 高麗郡建郡1300年記念イベント「高麗王・若光ウオーク」に参加し高麗峠を下る人たち(4月29日) ]
2016年5月16日は、武蔵国に高麗郡が設置されてから、ちょうど1300年とされています。旧高麗郡の中心であった埼玉県日高市では、年内にさまざまな行事が行われます。今年の高麗神社は、にぎやかになることでしょう。私は、高麗郡の成立過程を調べている歴史学者でもなければ、遺跡や遺構の調査や発掘に携わっている考古学者でもありません。地球観測衛星のデータを利用した解析により、古代地形を抽出する技術の研究をしています。その一つとして、高麗神社の祭神であり、高麗郡建郡のリーダーだった若光の行動について、興味と疑問を持つようになりました。
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高麗王若光は1300年前 大磯のどこに上陸したのか
地球観測衛星データが語る
地殻激変の房総・相模
さまざまな文献等によると、若光は従者とともに神奈川県大磯町の海岸に上陸し、しばらくその地に留まったのち、日高市のほうへと移動していったとされています。
大磯町には、高麗山があれば、その麓にはかつて高麗神社と呼ばれていた高来神社、さらにはその地名が「高麗」であるなど、何から何まで日高市と共通しています。したがってこの地が若光とつながりがあることは、疑いの余地がないでしょう。しかし若光たちが上陸したのは、ほんとうに大磯の海岸だったのでしょうか。
神奈川県南岸は、地殻変動がきわめて活発な地層が、目の前の海底にあります。そういう地域の沿岸に位置する大磯の海岸線が、1300年前と現在でほとんど変化していないとは、とても考えにくいでしょう。地殻変動のたびに、神奈川県のみならず関東平野南部の地形は、少しずつ変化しているはずです。
たとえば房総半島南端の館山市にある、縄文時代早期(約8000年前)の遺跡とされる稲原貝塚は、標高40メートルにあります。貝塚とは、縄文人が海辺で採集した貝類や魚を食べた後の「ゴミ捨て場」で、多くは舌状台地のヘリにあります。つまり縄文人たちは海辺の台地で暮らしていたということです。その「ゴミ捨て場」の遺跡が標高40メートルというのは、あまりに高い。これはなぜか。
縄文時代は地球温暖期であり、海水準が現在よりも5メートルほど高かったとされていますが、その数字を差し引いても「40メートル‐5メートル=35メートル」です。稲原貝塚だけではなく、南房総にある同時代の遺跡や貝塚は、標高40メートルから50メートルの台地で発見されています。ということは、長い歴史のあいだに房総半島が隆起してきたことのあらわれです。
寒川まで海だった
貝塚が標高40メートルの所に
大磯町の北にも、「五領ヶ台貝塚」という縄文時代中期初頭の遺跡があります。この貝塚も、海岸線から8キロメートル近くも内陸に入った、標高40メートルの舌状台地のヘリにあります。したがって縄文時代中期には、このあたりに海岸線があったということになります。
では1300年前の神奈川県南部の地形は、どのようになっていたのか。その解を求めるために、USGS(アメリカ地質調査所)の地球観測衛星「ランドサット8」のデータや、日本の宇宙航空研究開発機構((JAXA)の陸域観測技術衛星「ALOS」(愛称「だいち」)によって取得された標高データを利用しました。
これらの観測衛星によって取得されたデータを組み合わせると、地表の微細な凹凸もふくめた景観を、3次元画像化することができます。まずランドサット8とALOSのデータで、神奈川県南部を3次元画像化します。
つぎに3次元画像化したデータに、バーチャルな海水面を載せ、貝塚の位置をプロットし、海水準を少しずつ上げてみます。こうしてできたのが、<図1>の画像です。これを見ると、縄文時代中期の海岸線は、内陸部のそうとう奥深くまで入り込んでいたことがわかります。
では1300年前の神奈川県の海岸線は、どのようになっていたのか。これを調べるために、寒川神社の位置を活用しました。
寒川神社は、大磯町の中心地から北東に10キロメートルほどの、相模川沿いに位置しています。相模国一之宮として長い歴史があり、記録として残っているのは社殿建立が727年、つまり1289年前だったことです。また、「南に海がひろがりて…」という神社の地理的な位置を示す記録も残されているとのことです。
そこで寒川神社の南側に海岸線が接するように、バーチャルな海水面の高さを調節します。すると、<図2>のようになりました。海岸線は内陸に深く入りくんでおり、大小の湾を作っています。寒川神社の南には、〞寒川湾〟と呼びたくなるような三角形の湾があり、その頂点部分の陸地に、神社が位置しています。
大磯町の付近も、やはり北側には入り組んだ形状の小さな湾があり、高麗山はその門のように突き出ています。
1300年前の海岸線が<図2>のようだったとすると、若光たちはどこに上陸したのでしょうか。
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当時の海岸は今よりずっと内陸 現平塚市公所では…
大磯御船祭りの木遣り唄
若光讃える「権現丸」
この時代の日本は、645年の大化の改新後、律令制による中央集権の整備が進んだときです。東国に位置する相模国においても、勝手な場所に上陸して、自由に活動できたとは思えません。ここで若光の行動にかんする記録を、あらためて復習してみます。
日本の古文書や古文献に記されている、若光に関係すると思われる記述を要約して列記してみます。
1,666年 高句麗からの使節団の中に、「玄武若光」がいました。(日本書紀)年齢は記されていませんが、かなり若かったと思われます。また一般には、若光は高句麗の王族の出身といわれてます。
2,668年 高句麗は、新羅・唐の連合勢力により攻められて滅亡。その結果、若光たち使節団は、祖国を失います。
3,703年 玄武若光は、朝廷から「従五位下」という官位と、「高麗王(こまのこきし)」という姓を賜ります。(続日本紀)
4,716年 1799人の高句麗人により、高麗郡が建郡されました。(続日本紀)
「従五位下」と高麗王を賜る
この中で重要なのは、3,の部分です。若光は、「従五位下」という官位を与えられています。律令制下の階級制度では、郡司つまり現在でいう〞市長〟のような役職には、地方の豪族や、それなりの身分の人が任命されています。さまざまな文献を調べると、ほとんどは「従五位下」です。
したがって官位を与えた段階で、新設される高麗郡の郡司には若光を任命することが決まっていたものと思われます。同時に、すでに日本国内にいた高句麗人1799人を率いる立場と、高句麗の王族の血筋であることを考慮し、朝廷は「高麗王」の姓を与えたのではないでしょうか。
もう一つ、興味深いエピソードがあります。大磯町の「御船祭り」で歌い継がれている、「権現丸」という木遣り唄の歌詞です。木遣りとは、地域の祭りでは氏神の縁起や功績を歌い上げる伝統文化としても定着しています。「御船祭り」で唱い継がれる「権現丸」は、次のようなものです。
「権現丸」
そもそも高麗大明神の由来を詳しく尋ぬれば、応神天皇十五代の御時に海中騒がしく、浦の者共怪しみて、はるかの沖を見てあれば、唐船一隻八ツの帆を揚げ、大磯の方へ梶を取る、走り寄るよと見る内に、程なく水際に船はつき、浦の漁船、漕ぎよして、かの船の中よりも、翁一人立ち出て、櫓に上りて声をあげ、汝等其れにて、良く聞けよ、我は日本の者にあらん、もろこしの高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て大日本に心掛け、汝等きえする者なれば、大磯浦の守護となり子孫繁昌守るべし、あら有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗りうつり、揚がらせ給ふ御代よりも、権現様を乗せ奉まつる船なれば、権現丸とは此れを言うなり。
高麗山の北側に深い入江
盛んな港があった
「権現丸」の文中の、「翁一人立ち出て、櫓に上りて声をあげ、汝等其れにて、良く聞けよ、我は日本の者にあらん、もろこしの高麗国の守護なるが…」の部分から、この「翁」が若光を指していることは、容易に推測できます。
私が注目したのは、「浦」という単語が使われていることです。「浦」とは、「小さな湾」や「入り江」を意味する言葉です。「権現丸」という木遣り唄には、「浦の者共」、「浦の漁船」、「大磯浦」と3カ所もあります。
これに対し「大磯」という地名を表す言葉は、1カ所だけです。大磯の「浦」とは、どこにあるのでしょうか。
ここで振りかえって<図2>を見てください。高麗山の北側にあるのは、まぎれもない「入り江」、すなわち「浦」です。それも形状からして、相模湾が荒れているときにも、その波浪の影響を受けにくい、船舶にとってはまことに好都合の「浦」です。
「権現丸」に唱われている「浦」とは、ここを指していたのではないでしょうか。もちろん断定はできませんが、この入り江を仮に「大磯浦」と呼ぶことにします。若光たちの船は、大磯浦のどこにやってきたのでしょうか。
公所という名 朝廷直轄の地
「大磯浦」の西岸の一角に、公所という地名の地域があります。「ぐぞ」と読みます。なじみのない名前ですが、「公」という文字から推測できるように、朝廷の所有地、あるいは朝廷直轄の地です。
ここで、続日本紀に記されている若光関係の記述を思い出してください。若光は、703年に朝廷から「従五位下」の官位を拝し、「高麗王(こまのこきし)」という姓を賜っています。ということは、朝廷の命で関東にやってきたのですから、「公所」に上陸することを認められていたと考えても、不自然ではないでしょう。
現在の公所は行政区画では平塚市で、大磯の海辺から5キロメートル近い内陸にあります。周囲よりはあきらかに標高が高く、台地になっています。さらに前述の縄文時代中期初頭の遺跡「五領ヶ台貝塚」は、ここからわずか1キロメートルほど北にあります。
つまりこのあたりは、縄文の昔から海に近くて食糧に恵まれ、やがては漁船の船着き場としても適していたと思われます。若光たちは、ここに上陸したのではないでしょうか。
衛星データを活用すると、歴史のヒダに埋もれていた出来事を、科学的に推測することが可能になります。それがすべてを解明してくれるわけではありませんが、理解の糸口の一つにはなります。地球観測衛星だけではなく、他の科学・技術を活用すると、もっと見えてくることがあるかもしれません。
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プロフィール
(なかの ふじお) 1950年新潟市生まれ。京都大学・宇宙総合学研究ユニット特任教授。(一般財団法人)リモートセンシング技術センター・参与。科学・技術ジャーナリスト。工学博士(東京大学・工学系研究科)。
衛星データをもとに、考古学や歴史地理学、古典文学の情報と融合して古代の地形や人の移動ルートを推定する「宇宙・人文学」を提唱し、研究・教育活動を進めている。
(2016.5.25 民団新聞)