許されぬ政治利用
南労党の武装蜂起が「愛国」か
済州4・3平和財団が設けた「済州4・3平和賞」の第1回受賞者が金石範氏だったことに、韓国や在日同胞社会で反発が広がっている。当然であろう。彼は日本で作家活動をしながら、4・3事件は住民を無差別に虐殺した国家犯罪であり、韓国は誕生するべき国ではなかったかのように主張してきた人物だ。
授賞式に参席した彼は、受賞の所感やその後の記者とのやり取りのなかでやはり、4・3事件を「国内外の侵攻者に対する防御抗争」であり、「祖国統一のための愛国闘争」だと合理化した。「侵攻者」とは、「親日派が結集した李承晩勢力」と「米帝国主義」ということらしい。
4・3事件は、1948年5月10日に実施される国連監視下の制憲議会選挙を流産させ、大韓民国の建国を阻止するために、南朝鮮労働党(南労党=46年11月結党)の済州島党が武装蜂起したことに始まる。同年4月3日から6・25韓国戦争の休戦が成立(53年7月)して以降も続き、終息したのは54年9月21日のことだった。
済州島の当時の人口は28万前後であり、1万5000人以上が犠牲になったとされる。そのほとんどが無辜の民だ。共産ゲリラによる放火・略奪・殺戮があり、治安・掃討部隊による過剰な鎮圧があった。家族・友人・師弟どうしが反目しあい、報復が報復を呼んだ。済州道民の傷はいまだに癒えず、韓国における理念葛藤の源泉の一つになっている(別掲=『戦争ごっこ』参照)。
政府が4月3日を国家追悼日としたのは、罪のない犠牲者を弔い、今を生きる道民の心の傷を癒すためだ。平和賞の本旨も、事件の真相解明、平和と人権、さらには国民統合などに貢献した人々を発掘し、顕彰するところにある。金石範氏はそれとは正反対の立場にあると言わねばならない。
それにしても、90歳になろうとする金石範氏にあって、左翼小児病的な思い上がりをいまだに見せつけられねばならないのだろうか。在日社会のイメージも深く傷つく。朝鮮日報の13日付社説(日本語電子版)のタイトルにはずばり、「大韓民国を侮辱した在日小説家・金石範」とあった。
北韓の主張に添った言動で
金石範氏は、自身の国籍は「南でも北でもない無国籍者」であるとし、「祖国は一つであり、植民地時代も南北は一つだった。3年後に70周年になる4・3事件の完全解放こそ、南北が一つになる日を少しでも早めるだろう」とも語っている。北韓の主張に添う言動を誇示しながら、この位置取りを得意げに話すのも卑劣と言うほかない。
4・3事件を素材に小説を書き、発言するならば、多角的な再検証を繰り返す責務がともなわねばならない。歴史的背景の複雑な、あまりに悲惨な大事件であり、その傷が今なおうずいているからだ。しかし、金石範氏は共産主義者の、守旧的な教条にとらわれた発想以外に持ち合わせはないようである。
「北はリンゴ南はスイカ」
「『北はリンゴ、南はスイカ』というたとえがあったぐらいである。北は表面すなわち執権層は赤いが、中味つまり民衆は白く、南はその反対という意味である」(『南部軍‐知られざる朝鮮戦争』。李泰著/安宇植訳/平凡社)。解放直後に38度線で仕切られた南北の、政治意識状況を端的に示した有名な言葉だ。南ではそれほどに左派=共産主義勢力が強かった。
当時の共産主義勢力にとって抗日・独立闘争は、あくまで初期段階のテーゼであり、韓半島全域を支配する共産主義国家を築くための通過点に過ぎない。共産主義勢力にとって、中道左派の呂運亨による左右合作、代表的な民族主義者である金九による南北協商などの統一国家建設への希求は、あざ笑いつつ利用する対象でしかなかった。
彼らがめざしたのはあくまで、共産主義政党による一党支配である。民衆の思想信条や利害を代弁する複数政党による国政体制ではない。戦略上のつごうから、左右合作や南北協商によって国家的なフレームづくりに応じたとしても、彼らにとってそれは単なる踏み台にすぎない。
38度線以北の動きがそれを明確に示している。金日成はソ連の庇護のもとに45年10月、新設された「朝鮮共産党北朝鮮分局」(朝鮮共産党の再建は45年9月)の責任者として登場し、46年2月に組織された「北朝鮮臨時人民委員会」の委員長に就任。同年3月には土地改革法令、北朝鮮労働党(北労党)を結成した8月には産業国有化を公布する。
この間、以北でもっとも人望のあった中道右派の晩植が民族独立・南北統一・民主主義確立を3大綱領に掲げて朝鮮民主党を結成(45年11月)、党勢を急拡大させていた。民族主義・民主主義勢力の強さは以南の比ではなく、流血事態をともなう反ソ・反共の決起・示威が相次いだ。ソ連は戦車・戦闘機まで動員した無差別攻撃でこれを鎮圧し、後に晩植の命を奪っている。
ここで重要なのは、韓半島問題を解決するための米ソ共同委員会の第1次会議(46年3月)がはじまる前から、以北ではすでに単独の統治機構が軍事的強権によって形成され、今日の北韓の骨格をなす主要法律が施行されていた事実だ。革命基地としての国家づくりを着々と先行させていたのである。
李承晩が46年6月に全羅北道の井邑で、以南地域の単独政府樹立を提唱する談話を発表したのは、以南の責任指導者としてあまりに当然であった。むしろ、左右合作・南北協商の動きを無視できなかったとはいえ、以北における一連の既成事実化を前にして遅きに失したのは否めない。
米ソ共同委員会が47年10月、第2次会談の決裂をもって終わると、韓半島問題は米国によって国連に上程され、国連総会は同年11月、全朝鮮での統一総選挙の実施を決議。これがソ連の反対によって流産すると48年2月、南だけの単独選挙を決議し、同年5月10日のいわゆる「単独選挙」に至る。この有権者登録期間(3月29〜4月9日)のさなかに、4・3事件は引き起こされたのだ。
信じた同調者見捨て逃げた
特定の歪んだ価値観を除けば、いかなる角度から見てもこの事件は、「祖国統一のための愛国闘争」などではない。作家・玄吉彦氏が指摘(別掲=講演要旨参照)しているように、4・3事件の首謀者たちは、南の単独政府樹立は阻止しようとしながら、北でのそれには積極的に参与した。なおかつ、彼らはいち早く島外に逃れ、「愛国闘争」と信じて武装闘争に加わった同調者たちを見捨てたのである。
左派=共産主義勢力も内部では紆余曲折があった。しかし、韓半島全域を共産主義政党による一党支配の体制下におく野望は、一度も後退することなくふくらみ続けていた。49年6月、南労党と北労党が統合し、金日成を委員長に朝鮮労働党が結成された。そして、野望を完全成就すべく、軍事力を総動員して打って出たのが奇襲南侵である。
4・3事件を主導しながら、そのまっただ中の48年10月に北韓に逃れ、この6・25韓国戦争で7000人の部隊を率いて南侵した人物がいたことも確認されている。4・3事件で犠牲となった同調者や無辜の民は、死んでも死にきれまい。
平和賞受賞に際しての金石範氏のもの言いは、民衆の尊厳や命を踏みにじって省みない最貧の破綻国家、北韓に付き従ういわゆる従北勢力の論理となんら変わるところがない。
金石範氏は、「武装暴動だからといって無慈悲な鎮圧は正当化されず、過剰鎮圧を理由に事件を合理化することも許されない。過ちを認め合ってこそ和解と共生ができる」という玄吉彦氏の言葉に、耳を傾けるだけの知性にも欠けているのだろう。
おことわり 済州島が全羅南道から分離され「道」に昇格したのは46年7月。原則としてそれ以前のことは「島」、以後は「道」とした。
(2015.4.22 民団新聞)