掲載日 : [2022-09-15] 照会数 : 2095
在日の足跡掘り起こし…丹波篠山市人権・同和教育研究協議会
[ 落石で犠牲となった在日韓国人3人の慰霊碑。市同協はここにも銘板を設置した(豊林寺) ]
ゆかりの地に銘板 フィールドワークでたどる
【兵庫】県中東部の丹波篠山市。第2次世界大戦以降、韓半島からの移住や強制徴用でやってきた200人以上の韓国・朝鮮人がマンガンや硅石(けいせき)といった鉱山労働などに従事し、活況を誇ったまちだ。なぜか、この事実は『篠山町100年史』といった公的記録には一切記されていない。地元の歴史に埋もれ、忘れられた在日韓国人の足跡をよみがえらそうと丹波篠山市人権・同和教育研究協議会(市同協)が8月28日、フィールドワークを行った。
硅石は砲身、戦車、銃弾の生産には欠かせない耐火煉瓦の材料となった。1904年以降、大陸進出を本格化させていった日本は良質な硅石鉱床の探索・採掘を進めていたところ、篠山地域で世界有数の硅石鉱山が発見され、八幡製鉄所の直営となった。
一行が最初に向かったのは小倉公民館前に置かれた「ロース岩」呼ばれる赤白硅石。赤い部分と白い部分の混ざりあいが「霜降りの最高肉」を想起させる。「品質は日本一」とのこと。1933年の発見当時、地元篠山新聞には「大芋(おくも)村へ硅石で、三万円転げ込む」と報じられた。当時の1万円は現在の価値でおよそ1300万円に相当するとされる。現場には市同協の手で銘板が設置してある。
日本の植民地支配で生活基盤を失った在日韓国人も、硅石景気を知って丹波篠山に移住し、鉱山の仕事に就くようになった。1935年の丹波新聞コラム「紫外線」は「丹波地方では金槌一挺ぶらりと提げて、夢遊病者のように、山又山をさすらい歩く一夜づくりの山師が続出」と伝えている。硅石の探索・採掘には韓国人もかかわっていたことだろう。
戦争末期には本人の意志に反する形でやってくる韓国人も見られた。当時は戦争遂行のためになによりも硅石とマンガンを必要としていたのだ。韓国人の労働力が大きな役割りを果たしたのは間違いない。
「篠山市在日コリアン足跡調査研究班」の徐根植氏が作成した在日韓国人の人口推移を見てみると、1930年の85人が39年に300人、戦争が拡大していった41年には最多の873人を記録している。これは鉱山産業の盛衰とも一致しており、解放後は徐々に減少していったことがわかる。
硅石の掘り出しは暗い坑内で、カンテラの明かりだけがたより。げんのうとのみで岩に穴を開け、ダイナマイトを詰め込み、爆破して石を砕き落とし、それを運び出す。落石、落盤などで亡くなった韓国人は、新聞などで報道された限り、少なくとも7人を数える。新聞が発行されなかった時期もあるため、犠牲者はもっと多かったものと推定されている。
フィールドワークでは高野山真言宗の観世音菩薩を本尊とする豊林寺に「鳥山鉱山事故慰霊碑」も訪ねた。1948年3月3日に起きた落石で犠牲となった在日韓国人の金本容鎬さん(23)、姜俊伊さん(22)、竹田三童さん(43)を祀るものだ。ここにも銘板が設置されている。
毎月18日の観音講には檀家の人たちの手で供養されている。市同協の聞き取り調査では「同じあな(坑道)に入って命かけていし(硅石)を掘っとるんねん。朝鮮人も日本人もあるかいな」という証言が得られている。
フィールドワークの講師を務めた市同協啓発推進委員の松原薫さんによれば、竹田さんについては独自の調査で韓国国内の住所が判明している。松原さんは「もし、遺族がご存じでしたらお知らせしたい。このことで下からの日韓友好に繋がれば」と述べた。