掲載日 : [2018-03-07] 照会数 : 5729
<寄稿>ハンセン病の語り部「資料館」創設へ奔走…金相権さんを偲ぶ
1月24日、ある在日のハンセン病回復者が息をひきとった。その方の名は佐川修、本名金相権。長年、ハンセン病患者・回復者団体に役員として携わり、その運動を牽引してきたばかりではなく、在日入所者団体の役員やハンセン病資料館の創設者の一人としても大きな功績を残した。特に資料館設立においては全国の療養所をまわり約1300点もの資料収集や展示制作を行い、開館後も運営の中心を担った。
私が金さんに初めて会ったのは2002年、大学の授業でハンセン病資料館を見学した時であった。「佐川修」と自己紹介する金さんがまさか在日入所者とは思わず、担当の先生から聞いて初めて知ったのである。恥ずかしながらそれまで、最も多い時には700人以上もの在日入所者が全国の療養所で暮らしていたことを知らなかったのである。
その後、資料館で働くことになった私に金さんは一度、高松宮記念ハンセン病資料館時代に展示室を案内してくれたことがあった。陶芸が展示されているコーナーにさしかかった時のことである。金さんは表情を変えることなく「ここに展示されている邑久光明園の陶芸作品は朝鮮の人が多いんだ」と口を開いた。「この人もこの人も朝鮮の人」と、日本名で書かれている作家名と作品を指しながら私に教えてくれた。その時のにこやかで、どこか誇らしそうな表情を忘れられない。
口数は決して多くはなく、実直に仕事をこなす姿が、多くの人が持つ金さんの印象だろう。93年の資料館開館後、平日の午前中は入所者自治会に、午後からは資料館に出勤した。土日、祝日も開館する資料館に出勤するため、正月以外に休みをとることはほとんどなかった。
全国の入所者自治会の中でも、在日で会長にまでなったのは金さんだけであった。療養所内にも民族差別はあったが、金さんの働きぶりはそうした差別意識さえも跳ね除けるものであったといえよう。それほど日本人入所者からも人望は厚く、一目置かれる存在であったのである。
金さん自身、自らの半生について著すことはせず、資料館で行っていた語り部活動の中で自身を語ることもほとんどなかった。しかし、その語り口は普段の無口な姿とは違って熱意をおび、情感豊かなものであった。
多磨全生園で長年農作業のリーダーとして働いてきた在日入所者について金さんは、「同胞患者のリーダーとして人から後ろ指をさされたくないという負けじ魂が彼をして縁の下の力持ち的な行為をなさしめたといえよう」と書き残している。金さん自身もまた大部分の日本人入所者の中で生活する中で同様な思いを抱きながら生きてきたのではないか。
自らを誇示することなく、黙々と仕事を積み重ねていく姿に、日本人、朝鮮人問わず大きな信頼が寄せられていた。在日ハンセン病回復者として、他の入所者仲間のために力を注ぎ続けた生き様はこの先も私達の胸に深く刻まれ続けることになるに違いない。
(金貴粉・国立ハンセン病資料館学芸部 社会啓発課主任学芸員)
(2018.3.7 民団新聞)