寄稿 赤木 隆幸(日本高麗浪漫学会理事)
今年は『日本書紀』の編纂から1300年。この歴史書からは日本と高句麗との間で親密な交流があったことがわかる。この問題に詳しい日本高麗浪漫学界の赤木隆幸理事に「『日本書紀』にみえる高句麗」と題して寄稿してもらった。
「高麗」(こま)と表記
『日本書紀』は『古事記』とならんで日本でもっとも古い歴史書です。その編纂は天武天皇の時代に始まり、元正天皇の養老4年(720)に完成しました。ですから今年は『日本書紀』が完成してからちょうど1300年目になります。
『日本書紀』は全部で30巻あります。その構成は、巻第1と巻第2が「神代(かみよ)」、つまり天照大神や天孫降臨など神様の時代のことが記されています。巻第3には初代天皇の神武天皇のことが記され、そこから持統天皇の巻第30まで歴代の天皇の記事が続きます。このほか『日本書紀』30巻には系図1巻が付けられていたとされますが、散逸してしまい現在ではそれを見ることはできません。
『日本書紀』の「紀」には天子の事績を記したものという意味があります。つまり、中国なら皇帝、日本なら天皇ということになります。ただし、『日本書紀』には天皇の事績や都の出来事だけではなく、豪族や氏族、および地方や外国のことも記されています。高句麗も『日本書紀』に記される外国の一つで、『日本書紀』の中では「高麗」と表記され、「こま」と読みます。あるいは狛犬の「狛(こま)」と表記されることもあります。もちろん10世紀に建国された「高麗(こうらい)」とは別の国です。
一方で、朝鮮の歴史書『三国史記』や中国の歴史書『三国志』などでは「高句麗」と表記されています。同じ中国の歴史書でも『南斉書』や『隋書』などでは「高麗」と表記されています。
高句麗は、紀元前後から西暦668年まで朝鮮半島の北部に存在した国です。北は中国に接し、南は百済と新羅に接していました。中国吉林省集安県には広開土王(好太王)の石碑がありますが、この広開土王も高句麗王の一人です。
高句麗使が漂着
『日本書紀』の中で最初に高句麗すなわち「高麗」が出てくるのは、巻第9の神功皇后のところです。ここでは神功皇后が軍隊をひきいて朝鮮半島へ戦に出かけたと書かれていますが、これは史実ではないと考えられています。その後、応神天皇・仁徳天皇・雄略天皇などの時代にも高句麗と日本(倭)との交流があったようですが、高句麗のことが『日本書紀』に顕著に出てくるのは欽明天皇(巻第19)より後のことです。
欽明天皇6年(545)の条には、高句麗で内乱があり、高句麗の安原王が亡くなったことが記されています。これは『百済本記』という書物からの引用で、『日本書紀』の編纂にはこのような外国の資料も使われていたことがわかります。
また、欽明31年(570)には高句麗から使者(高句麗使)がやってきました。高句麗使の船は風浪にあおられ海路を失って、越国(こしのくに/漂着したのは石川県と考えられる)に漂着しました。欽明天皇は越(こし)の豪族から知らせを受けると、山背国相楽郡(やましろのくにさがらかのこほり/京都府南部)に館(むろつみ)を建てて高句麗使を迎え入れました。これが相楽館(さがらかのむろつみ)と呼ばれた高句麗使のための饗応施設で、後にここは高麗寺になったということです。
この時、高句麗使の迎えには飾船(かざりぶね)という特別な船を用意し、難波津(なにわのつ/大阪府)から出航して淀川水系を遡って琵琶湖に入れ、琵琶湖の北岸まで出向いたそうです。
このあと欽明天皇が崩御されてしまったので、この高句麗使は次の敏達天皇の時に高句麗王からの親書や贈物を献上しました。その後、高句麗使が帰国する時には送使という役人を付けて高句麗まで船で送らせました。このように、この記事には高句麗使の往来のことが詳しく記されています。また、当時の日本の朝廷が高句麗を非常に重視していたことがわかります。
仏像建立に黄金
日本に仏教が伝来したのは欽明天皇の時代で、百済王から仏像や経典が贈られたのが始まりとされています。その後、崇峻天皇の時に日本で最初の仏教寺院となる法興寺(飛鳥寺・元興寺とも)が建立されるのですが、金堂の本尊(仏像)が造られるのは次の推古天皇の13年(605)のことでした。この時、高句麗の大興王(嬰陽王のこと)は、日本の天皇が仏像を造ると聞いて、黄金三百両を贈ったと『日本書紀』には記されています。この仏像が、奈良県明日香村の飛鳥寺に安置されている飛鳥大仏(釈迦如来坐像)です。
また、推古天皇の時代に仏教の布教に尽力されたのが聖徳太子(厩戸皇子)ですが、この聖徳太子の仏教の先生は高句麗から来た慧慈(えじ)という僧でした。その後、高句麗に帰国していた慧慈は、聖徳太子が亡くなったことを聞くと大いに悲しみ、翌年の同じ日に自分も死んで浄土で太子に会うと誓い、実際に翌年の同じ日に亡くなったと『日本書紀』には記されています。
聖徳太子が亡くなった年月日は、『日本書紀』では推古天皇の29年(621)2月5日となっていますが、金石文などから判断して推古30年(622)2月22日に亡くなったとされています。
そのほか、推古18年(610)に高句麗王から献上された曇徴(どんちょう)という僧は、絵の具や紙墨、および水臼を作る能力にたけていたそうです。高句麗の領土は中国や百済・新羅に接していましたから、しばしばこれらの国と戦争になっていました。推古天皇の時代、高句麗は中国の隋に攻められていたので、仏教などを通じて日本(倭)と友好関係を結ぼうとしたのかもしれません。
少し降って7世紀の中頃になると、朝鮮3国すなわち高句麗・百済・新羅の関係が悪化します。新羅は中国の唐と手を結んで、百済と高句麗を攻めました。まず百済が西暦600年に滅亡してしまいます。百済の遺臣たちは国を再興するために日本に救援をもとめました。日本(倭)は663年に百済に軍隊を派遣し、白村江(はくすきのえ・はくそんこう)という場所で唐・新羅の連合軍と激突しました。これが、日本軍が大敗した「白村江の戦い」です。この戦いの様子が『日本書紀』の天智天皇2年条に記されています。
百済の滅亡により高句麗は大変な窮地におちいりました。恐らく高句麗も日本に救援をもとめていたのでしょう。この時期に複数回使者を派遣しています。しかし、日本から高句麗へ援軍を送ることはありませんでした。そして、高句麗もまた唐と新羅に攻められて西暦668年に滅亡してしまいます。
高句麗滅亡の少し前、天智天皇の5年(665)10月に日本に派遣された使者の中に「二位玄武若光」という人物がいます。この若光は日本に滞在している間に高句麗が滅んでしまったため国へ帰れず、そのまま日本に留まって、文武天皇の大宝3年(703)には「高麗王」の姓(かばね)を賜りました。これが高麗神社(埼玉県日高市)に祀られている「高麗王若光」です。若光が姓を賜った記事は、『日本書紀』の次の歴史書である『続日本紀』(しょくにほんぎ)に書かれています。
常陸などへ移住
高句麗が滅亡したことにより、祖国を失った多くの高句麗人たちが日本に渡ってきました。日本に渡ってきた高句麗人のことを「高麗人(こまびと)」と呼びますが、この時日本に渡ってきた高麗人たちは、最初は都の周辺に住んでいたと考えられます。古来より高句麗と密接な関係にあった氏族を頼って生活していたのかもしれません。 『日本書紀』持統元年(687)3月条に、高麗人56人を常陸国(茨城県)に移住させたとあります。そして、『続日本紀』霊亀2年(716)5月条には、駿河(静岡県)・甲斐(山梨県)・相模(神奈川県)・上総(千葉県)・下総(千葉県)・常陸(茨城県)・下野(栃木県)に住んでいた高麗人1799人を武蔵国(埼玉県)に遷して、「高麗郡」を置くと書かれています(高麗郡は埼玉県日高市周辺)。つまり、高句麗滅亡後に日本に渡ってきた高麗人たちの一部は、都から常陸などの東国へ移住し、そしてさらに武蔵国の高麗郡に遷ったということでしょう。
また、高麗郡出身で従三位(じゅさんみ)という高い位にまで上った高倉朝臣福信(たかくらのあそんふくしん/もとの姓は肖奈)の祖父は、高句麗が滅亡したときに日本に渡ってきて、その後武蔵国に住んだとされています(『続日本紀』延暦8年(789)10月乙酉条より)。
赤木隆幸(あかぎたかゆき)
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1970年生。日本高麗浪漫学会理事。早稲田大学文学研究科アジア地域文化学コース博士課程単位取得退学。日本古代史研究/入間郡高麗郡歴史研究/川越歴史民俗研究。
(2020.07.29 民団新聞)