掲載日 : [2023-01-18] 照会数 : 3488
一子相伝 薩摩焼の美 東京で15代沈壽官展
[ 薩摩六種彫筒形香炉 ] [ 展示会場での15代沈壽官さん ] [ 薩摩焼発祥の経緯と歴代当主の代表作も展示 ]
観客魅了…新作と歴代の名品
「リスク恐れずローカル追求
「薩摩焼十五代 沈壽官展」が16日まで東京の日本橋高島屋本館6階「美術画廊」で初開催された。同百貨店の開店90周年を記念しての特別企画。
「白薩摩」と「黒薩摩」の香爐、花瓶、茶器、水指などの新作約70点を一堂に展示した。兎をモチーフとした「薩摩干支香合」や「薩摩賢人像」といったフィギュアも観覧者の目を楽しませていた。
「白薩摩」は象牙を思わせる格調高い白。だが、そこに人肌のようなぬくもりを感じさせる。かつては島津藩の調度品や朝廷への献上品として格別に珍重されてきた。一方、のびやかな土味の力強さのなかにも侘び寂を感じさせる「黒薩摩」は「黒もん」とも呼ばれ、庶民の日用陶器として広く愛されてきた。
今回は沈家を中心とする薩摩焼発祥の経緯と歴代当主の代表作も展示した。初代当主は16世紀末の「壬辰倭乱」当時、島津軍によって捕虜として日本に連行されてきた沈当吉。当時は朝鮮義兵隊の兵士だったとされる。
当吉は「白い焼きものをつくれ」との藩の命を受けて白土を発見し、今日の薩摩焼の基礎を築いた。
1867年のパリ万博には藩単独で「白薩摩」を出品したことから、世界中に「SATSUMA」の名前で知られるようになった。
12代のときには「透かし彫り」「錦絵」を取り入れ、1893年のシカゴ万博ではその優れた造形・焼成・装飾が高く評価された。その一子相伝の技は15代に受け継がれている。
15代沈壽官さんは「焼きもの屋の仕事は最適な土を掘って組成し、粘土をつくるところから始まる。数カ月かけて丹念に造りこんだものを1260度という火で焼く。そこで縮み、ゆがみ、切れ、成功作品の2、3倍の量が一瞬にしてダメになっていく。リスク回避のものづくりの世界にあって、こんなことをする窯元はどこにもない。これからも鹿児島の地でとことんローカルを追求していく」と話した。
沈家 ルーツは慶尚北道
韓国文化勲章先代が受賞
豊臣秀吉の2度目の朝鮮出兵(1957年=丁酉倭乱・慶長の役)の翌年、日本軍が撤退した際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代・沈当吉はいた。沈家は、慶尚北道青松に本貫を置き、その一族は李朝4代世宗大王の昭憲王后をはじめ、領議政(国務総理)9人、左議政、右議政(副総理)、4人を出した名門。
薩摩の勇将島津義弘によって連行された朝鮮人陶工達は、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を創出した。
江戸時代、薩摩藩主であった島津家は朝鮮人技術者達を手厚くもてなし、士分を与え、門を構え、塀をめぐらすことを許すかわりに、その姓を変えることを禁じ、また言葉や習俗も朝鮮のそれを維持するように命じた。
沈家は代々、薩摩藩焼物製造細工人としての家系をたどり3代陶一は藩主より陶一の名を賜わり、幕末期には天才12代壽官を輩出した。
幕末期の藩営焼物工場の工長であった12代壽官は1873年、日本を代表してオーストリアのウィーン万博に6フィート(約180㎝)の大花瓶一対を含む幾多の作品群を発表し、絶賛を浴びた。以来、「サツマ」は日本陶器の代名詞になっていった。
1964年『壽官』を襲名した14代は68年10月作家司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』の主人公としても登場した。
70年大阪で開かれた万国博覧会に白薩摩浮彫大花瓶を出品し、好評を博す。89年には日本人初の大韓民国名誉総領事就任を承認された。また、98年に行われた国際的イベント『薩摩焼400年祭』の成功により、金大中大統領より民間人としては最高位にあたる大韓民国銀冠文化勲章を受章した。
99年に14代壽官存命のまま、長男一輝が15代を襲名し、『壽官』を名乗った。
15代沈壽官は83年早稲田大学を卒業、88年イタリア国立美術陶芸学校を修了。90年に大韓民国京畿道金一萬陶器工場(現五父子雍器)でキムチ雍製作修業した。
(2022.1.18民団新聞)