
E氏は1990年代、中国地方で生まれた。両親はともに韓国籍で、彼も韓国籍だったが、帰化をしており現在では日本国籍である。母方の祖父母は戦時中、大阪へ出稼ぎに来たのち、中国地方の朝鮮部落に移り住んだ。E氏が生まれ育ったのは、祖父母が生活していた朝鮮部落の近くであった。そのため、小学校にも在日韓国人が何人かいたという。幼いころは毎日のようにキムチや豚足が食卓に並んでいても「それが当たり前で、在日だからとかは思っていなかった」という。
彼が自らの出自を明確に意識したのは小学校3年生の時であった。帰り道で上級生の女子から「韓国人なんやろ」と言われたのである。当時、彼は自身が在日韓国人であることを知らなかったため「違いますよ」と答えたという。しかし、気になって母に尋ねたところ、「そうよ」と告げられたという。それまでの生活では、家でキムチや豚足を食べることも、母が近所にキムチを配ることも「普通のこと」だった。だがその日を境に、彼は自分が「日本人ではない」ことを意識しはじめる。
E氏‥周りと違うのが恥ずかしいっていうのもあったし。今まで応援団長とかリーダー格だったんですけど、それ〔在日韓国人であること〕を理由にいじめられるんじゃないかな、っていう思いがあったんですよ。弱み握られるわみたいな。で、僕の中では隙を与えたくなかったんですよね。運動会に、お母さんが来たら、なんかこう、すごい派手な格好で来て叫ぶんですよ。日本の家庭とは違うような感じで。野球やってましたけど、スタンドでお母さんが見てた時に、1人だけ叫んで、めっちゃ応援してくれるんですよ。そういう違うとこがあって。今となったらこう、感謝しないといけないですけど、やっぱ恥ずかしいというか。在日っぽい感じが恥ずかしかった。
このように、小中学校では自身の出自を隠していたが、高校時代、状況が変化する。高校での野球部活動を通して、「韓国人であること」が否定的なものではなくなっていったのである。彼は弱小チームのキャプテンに任命され、わずか5人の部員からスタートしたチームを率いて、3年生の時には県大会ベスト8まで導いた。当時、監督もE氏が在日韓国人であることを知っていたが、「そうなんですね」と言うのみで、「むしろハングリー精神というか、そういうのを買ってくれた」という。
彼は今となっては「在日韓国人だからいじめられるとか、僕のなかでは一切そういうことがなくなった」という。
社会人となった彼は、中部地方の自動車会社に就職する。組合活動のなかで「選挙権がないこと」が不利益として意識されるようになり、3年前に日本国籍を取得した。
日本国籍を取得する際の顛末を聞くと、彼の家族は国籍に強いこだわりを持たないように見受けられる。母は「自分の好きなようにしたらいい」と背中を押しただけで、特別な意見を言うことはなかった。
青年会に参加するようになったのは社会人になってからである。同じく、中部地方に住む兄の紹介で参加するようになった。彼は青年会に参加したばかりのころの印象を以下のように語る。
E氏‥なんか停滞してるというか、元気ないというか。そもそも参加者があまりいなかったんですよね。兄貴が会長だったんですけど、その次の会長の時もほとんど会の活動ができてなかったし。大丈夫かなっていうのが一番でした。
E氏は「停滞」という言葉を用いているが、一般的に考えればこうした状況であれば、青年会から足が遠のきそうである。しかしそうはならなかった。彼は「高校の野球部と一緒で、それが在日に変わっただけで、低迷しているものを上げていきたいっていう感覚が一番だった」と語る。
現在、彼は地方本部会長として活動している。組織を運営するにあたって難しさを感じることもあるが、彼自身の自己成長にもつながっているという。
E氏‥ほんと、今は課題に当たっているって感じですね。執行部にしろ、1人1人悩みも性格も違うじゃないですか。そういう人たちになんて声をかけて寄り添ってあげればいいんだろうって。
E氏は現在、「在日でよかったなと思っています」と語る。青年会での他者との出会いはもちろんのこと、「自分がいろいろ頑張ってこられたのも在日だからだと思う」と語る。すなわち、「おばあちゃんとかもこっちに来て苦労しているし、そういう背中を見てきたから自分も頑張れるんだと思う」「在日だから、韓国人だから頑張れたし、今の自分があるんやろうなってのは思いますね」という。
E氏の生活史を振り返ると、彼にとって在日韓国人であることが「恥」から「誇り」へと変わる過程を読み取ることができる。
野球部での経験や青年会での活動を再帰的に振り返った時、民族は隠すものではなく、彼の糧として位置づけられているのである。在日であることは、生き方の姿勢であることをE氏の語りは教えてくれる。