掲載日 : [2018-09-12] 照会数 : 7523
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く…<7>赤間関(下関市)
[ 有田焼創始者、李参平の碑がある陶山神社 ] [ 「朝鮮通信使上陸港留之地」の碑 ] [ 赤間神宮(水天門) ]
赤間関(赤間神宮・朝鮮通信使上陸港留之地・陶山神社)
「回答兼刷還使」から「朝鮮通信使」に改名…陶山神社に有田焼創始者の碑
「朝鮮通信使」の最初の3回(1607、1617、1624年)までは、「回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)」と呼ばれていた。
それは、対馬藩の宗氏が偽作した国書の「回答」と、豊臣秀吉の朝鮮侵略での拉致された人たちの「刷還」が名目だった。諸大名により捕虜とされた朝鮮の人たちは、7万人ほどと言われている。
彼らは農耕要員の不足を補うためであったり、文化事業に携わる学者や技術者などだった。鍋島藩では千数百人もの陶人たちを九州に引っ捕らえ陶工の村を作った。佐賀県有田町の陶山神社には、伊万里焼の磁器の焼成(しょうせい)に成功し、有田焼の創始者になった李参平(?~1655年)の碑がある。
朝鮮国は、日本側からの国書による謝罪と、日本に拉致された人たちを捜し、連れ戻すための外交使節団を派遣した。
幕府は捕虜が多く住む九州を寄港地とせず、新宮港(福岡)から8km、玄界灘に浮かぶ小さな島「相島」にした。
拉致された人たちを探しもとめたが、文禄の役(1592~93年)・慶長の役(1597-98年)から随分と歳月が過ぎていたので、第1回目の刷還では約1400人ほどしか朝鮮に連れ戻せなかった。それ以降も家族ができたり世代が変わったりして、彼らの生活基盤が日本となったため、申し出る人も少なくなった。資料よると、朝鮮への帰還者は6000人から7500人ぐらいとされている。第4回目からは江戸幕府からの要望もあり、室町時代の名称であった「朝鮮通信使」に戻った。
朝鮮通信使の赤間関(あかまがせき)での客館(三使と上官)は、阿弥陀寺(現・赤間神宮)であった。李聖麟が描く朝鮮通信使の寄港地「赤間関(槎路勝区図)」には、なだらかな山々を背に阿弥陀寺などの建物と海岸線には桟橋が描かれていた。今日の赤間関の景色からは、想像できなくなってしまった。
関門海峡を臨む赤間神宮の水天門は、竜宮城のような形状で白壁に塗られた艶やかな朱色が際立っている。境内には平家一門を祭る七盛塚(ななもりづか)、それから阿弥陀寺を舞台にした「見なし芳一」の像があるが、朝鮮通信使関係の資料は見当たらなかった。社務所で尋ねると、参道の鳥居が見える向こう側の阿弥陀寺公園に「朝鮮通信使上陸港留之地」の碑があると教えてくれた。
赤間神宮に着いたときは小降りであった雨が、突然雨足が激しくなり傘を差しながらの撮影となった。暗雲が覆う空に波打つ雁木の辺りだけは、潮待ちする朝鮮通信使のイメージに重なった。
藤本巧(写真作家)