掲載日 : [2018-08-29] 照会数 : 6741
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く…<6>相島(朝鮮通信使客館跡)
[ 朝鮮通信使客館跡(畑の後方に石碑と案内板が建つ) ] [ 台風で迎護船が座礁し亡くなった藩士らの関連墓地 ] [ 朝鮮通信使関連供養塔と地蔵堂 ]
壮大な客館跡「島の半分近く」
渡船(とせん)は、福岡市新宮港から約17分で相島(あいのしま)に着く。ここは玄界灘に浮かぶ小さな島(面積1・25キロ平方メートル、現人口が300人未満)であるが、朝鮮通信使が壱岐の次に立ち寄った港として知られている。
先波止(さきはと)を曲がった辺りで神宮寺の住職に偶然出会う。「朝鮮通信使客館跡」は、お寺の前の畑だとそのとき教わった。石碑の横の立看板には、徳川幕府からの御触書(おふれがき)として、通過経路の各藩(相島は福岡藩)に対し「この使節団を手厚く接待するように命じた」という一文が記されている。
相島には、朝鮮通信使が11回も寄港しているのだが、その度ごとに心のこもった「おもてなし」をするため、1年も前から対馬藩の指示を参考に準備が進められたという。約5000坪の敷地面積に24棟もの宿舎を造るには、総勢3000余りの大工・左官が雇われ、波止場の石積などは島人たちが協力した。その光景はさぞかし賑やかであったでだろう。
しかしそこは、いっけん何の変哲もないどこにでもあるような畑であった。延享5年(1748)に描かれた「朝鮮通信使客館図」には島の半分近くが客館で(誇張されていると思うが)、現在の波止場辺りが「番所」になっていた。近年(1994年)この場所での発掘調査で、壮大な客館跡の存在が実証された。
ここから東へ約1・4㎞離れたところに、朝鮮通信使の悲劇を祀る「供養塔」があった。
『海游録』(姜在彦著・平凡社)によると、享保4年(1719年)に壱岐に寄港した朝鮮通信使が台風の襲来にあった。通信使を迎える準備をしていた相島では、40隻あまりの迎護船が座礁し、多くの藩士や浦水夫たちが犠牲になったという。
次の渡船まで、わずか1時間しかなかったので、早足で現地に向かった。山道から脇道へ曲がると長井浜が眼下に広がる。大小のゴツゴツとした石ころが数百メートル敷かれ、こんもり盛られた積石が古墳だと直ぐに分かった。
しかし、どこからが朝鮮通信使関連墓地の境目となるのか難しかった。遠方に視線を向けると供養塔らしき石と小屋が映った。2010年の調査で石碑(碑文)の拓本を採ると「韓使来聘(かんしらいへい)」という文字の痕跡が浮かび、通信使迎護の折り溺死した61名の「合葬舟人墓」だと分かった。
この島には伽耶(朝鮮半島の4~6世紀頃の国名)系と思われる須恵器なども発掘され、朝鮮通信使だけでなく古代から両国が友好関係であったことを物語っている。
藤本巧(写真作家)
(2018.08.29 民団新聞)