外国人登録法に定められた指紋押捺と登録証の常時携帯制度の撤廃を求めて1980年代の同胞社会は法改正運動の渦中にあった。民団は「外国人登録証の指紋押捺・常時携帯制度撤廃100万人署名運動」を83年9月に開始、目標を大幅に超える約182万人の署名を集めた。しかし、法改正が遅々として進まないことから85年7月、指紋留保運動を展開し、傘下団体の婦人会、青年会は指紋拒否運動に突入した。在野の市民団体「指紋押捺拒否予定者会議」も指紋拒否運動を展開した。あの運動から40年、京都と東京で運動を振り返るシンポジウムとセミナーが開かれた。
【京都】「指紋押捺拒否・反外登法の闘いとはなんだったのか‐40年後のいま、運動を振り返る」をテーマにした公開シンポジウムが11月30日、同志社大学で開かれ、指紋押捺拒否者やそれを支えた支援者ら約150人が参加した。拒否者のほか、運動を取り締まる側にいた法務省入管局の幹部も登壇、それぞれの立場から当時を振り返り、証言した。
シンポを企画したのは指紋拒否・反外登法運動を研究している同志社大大学院の在日4世の金由地さん。「日本の公民権運動とも言われる指紋拒否は大きな意味があるが、これまで学術的に研究がなされなかった」と述べた上で「70年代に外登法違反容疑で検挙されたのは在日の6人に1人。大半が切替交付不申請と登録証の不携帯だった。指紋押捺は心理的に痛みが伴い、常時携帯違反は20万円以下の罰金刑が下された。拒否運動の高まりとともに200を超える支える会ができ、自治体が拒否者を警察に告発しない流れができた。拒否者、自治体職員、法務省は運動をどう見たか、それを明らかにしたい」と趣旨説明した。
指紋拒否者の朴容福さんは韓国籍の在日2世。「犬の鑑札と言われた外登証を持たされ、警察と入管に監視される。外登法と入管法という治安管理法に違反すると『日本から出て行け』と言われ、刑事罰で取り締まる。日本人自身が日本国家によって抑圧され、自由と権利が奪われてきた。その歴史がほとんど研究されていない。目を向けなくてはならない」と口火を切った。
カナダからの留学生だった米国籍のロバート・リケットさんは「指紋押捺は公正な外国人管理ではなく、異民族を排除する公権力の武器。日本版アパルトヘイトだ。悪法による人権侵害に対して良心的不服従で闘った拒否者の叫びは、一般住民にも届き、外交問題にもなった。在日の努力のおかげで2000年に法制度は廃止になった。在日の歴史の中で日本人とともに初めて闘った歴史は日本の近代史に残る」と評価した。
中国籍の在日2世、徐翠珍さんは「150年の居住の歴史があるのに滞在3カ月の外国人と同じレベルにされていることに怒りを覚えた。拒否運動が勝利しなかったから今日の改悪入管法の問題が残っているのではないか。植民地政策の反省を抜きにして共生はない」と日本の外国人政策に異議を申し立てた。
東京の区役所で住民登録管理の仕事をしていた水野精之さんは「国からの機関委任事務だった指紋押捺。在日に指紋を押させ、拒否すれば警察に告発する。管理職はそれをヒラの職員にやらせる。都の区職員が集団で委任事務を拒否し、抵抗したことで流れが変わった」と当時の状況を報告した。
85年から2年間、法務省入管局登録課課長補佐だった水上洋一郎さんは「韓国の全斗煥大統領が84年に初訪日し、中曾根康弘首相との間で在日韓国人の法的地位改善を約束した。政府からの外登法改正の至上命令が出たが、指紋を押す黒インクを無色透明に、回転指紋を平面にすることが精一杯だった」と述べた。
また、法務省は指紋原紙をもらうだけで何も活用していなかった事実を明かした。各省庁は外国人登録制度維持を前提にした。外務省は「日韓関係の足を引っ張るな。目に見える改善を」と迫り、警察は人物照合に最高のツールである指紋を「集団拒否」によって法改正されるのは耐えがたいと抵抗し、自治省は「住民の窓口にいる職員が住民である拒否者との間で摩擦や重圧を受けるのは困る」と板挟みになっていた事実を告白した。
立命館大学の鄭雅暎特任教授が進行したパネルディスカッションでは「日本人にとって運動の総括はあったのか」「古典的な国民国家の考え方がずっと残っている。その立ち位置では在日外国人との共生はできない」「入管法には共に構成する外国人を管理対象にしている。その仕組みを何とかしなければならない」「在日の歴史的経緯を教育の場で教えない」「政治家や裁判所は物事を考えなくてはならない」「40年前の日本よりも今の日本のほうがずっと怖い。敵国人として殺される恐怖がある」などと百家争鳴の議論が続出した。
最後に同志社大学の板垣竜太教授が「反外登法の闘いがあったが、新たに入管法の問題が出てきた。日本の外国人政策は当事者である日本人の問題だ」とシンポを締めくくった。
【東京】東京の集会は11月23日、KJプロジェクトが主催する第64回セミナー「指紋拒否から40年。今、在日社会に求められているものは」と題して開いた。84年11月27日は民団の傘下団体、在日韓国青年会に所属する5人の青年が日弁連で記者会見した後、都内の3区役所で「集団拒否」。それから40年の節目の年に当たることを受け開催した。
指紋拒否を描いた呉徳洙監督の映画「在日」と韓国新聞(現民団新聞)に掲載された外国人登録法(外登法)改正運動の記事のスライドを鑑賞した後、指紋拒否者の一人、KJプロジェクトの〓哲恩代表が「民団の約182万人の署名をもってしても法は改正されなかった。順法闘争が駄目なら指紋拒否だと運動に突入した。後に指紋制度はなくなり、外登法も廃止されたが、あれから40年、入管法は改悪され、『朝鮮人出て行け』というヘイトスピーチが横行している。運動を闘った拒否者の皆さんから今の状況に対して意見、提言をいただきたい」と挨拶した。
民団中央本部の組織次長だった林三鎬さんは、100万人署名を成功させるために日本縦断自転車隊を企画した。「100万署名を達成すれば社会的インパクトがあると信じ、道行く人に土下座してでも署名をお願いした。自転車隊は4万ほどの署名しか集めることができなかったが、その後の民団の方向性を決定づける運動になった」と総括した。
辛仁夏さんは中学3年生で指紋押捺に直面した。「指紋拒否したことで支える会ができた。届いた脅迫手紙はアボジが私の目に触れないように処理した。日本の市民運動の盛り上がりを体験した」と振り返る。
当時婦人会中央本部の副会長だった河榮希さん。裵順姫会長の強力なリーダーシップのもと、婦人会が指紋制度撤廃を決めたことを紹介した。婦人会は指紋を押すのが当たり前だと思っていた20万人の会員に「指紋制度は不当。子孫のために撤廃を」と啓蒙する研修会を何度も開催した。国会議員に法改正を要望したがらちが明かず、84年にジュネーブの人権擁護委員会に150人がチマチョゴリ姿で訪れ、指紋撤廃の陳情をした。85年にも同じく150人でジュネーブを訪れ、英国やフランスなどで記者会見し、実情を訴えた。86年には国連本部にも行った。本部周辺で90人がチマチョゴリでデモをした。在米韓国人の女性がデモに参加してくれたと報告した。
指紋押捺拒否予定者会議の高二三さんは「85年に拒否し、88年に区役所に登録に行ったら転写指紋になっており、昔押した指紋が刷り込まれていた。登録証をその場で破ったところ告発された。指紋拒否運動は在日の人権運動史と位置付けるべきだ」と語った。
指紋拒否運動を研究している東大大学院生の櫻井すみれさんは「拒否者を支えた日本人は何を思っていたか。日本社会は今も植民地支配の歴史に向き合っていないが、日本人が他者の問題を自身の問題として考えた拒否運動を歴史に残していきたい」と話した。同志社大大学院生の金由地さんは「社会運動と聞いてイメージするのはデモだが、80年代のこの運動は指紋拒否という直接行動だ。不服従の積み重ねが制度を撤廃させることに繋がった。世代や問題意識が異なる拒否者が一つの運動に結集した」と評価した。
指紋を押させる側にいた区役所職員の水野精之さんは「法務省は機関委任事務として自治体職員に指紋押捺を強いた。公務員は犯罪者を見つけたら告発する義務があると言ってきた。入管法や外登法という巨木はなかなか倒れないが、自治体という葉っぱが告発しない動きを作って巨木を立ち枯れさせた」と証言した。
指紋拒否予定者会議の朴容福さんは「入管法の改悪を見て、指紋を拒否して永住許可を失った40年前の悪夢が蘇ってきた。指紋を押さないことで奪われる私たちの永住資格の軽さ。私たちの究極の願いは永住資格ではなく、出て行けと言わせない権利『永住権』を勝ち取らなければならない。でないと真の自由はない」と強調した。
指紋拒否して一度は永住資格を失ったピアニストの崔善愛さんは「指紋拒否は自分にとって避けて通れない問題だった。在日として生きていく宣言だった」ときっぱり。一橋大学の田中宏名誉教授は「外登法に義務付けられた住居地変更届出義務の違反は、日本人の場合は5万円以下の過料だが、外国人は20万円以下の罰金で前科になる。この差は一体何か。外登法は廃止になったが、重罰規定は入管法・入管特例法に移され、今なお存続している。『外国人は煮ても焼いても自由』という日本の考え方は変わらない」と非難した。
また、「泣き寝入りを繰り返すのでなく、納得できなければ異を唱える。民族差別と闘う連絡協議会(民闘連)が発足した流れの中で最高裁に『異を唱えて』金敬得さんが弁護士への道を開いた。韓宗碩さんが『子孫が指紋を押さなくて済むようにしたい』と拒否第一号になった。朝の来ない夜はない。日本人と在日外国人が共生できるよう運動の継続を」と訴えた。