甲子園 独立リーグ 社会人チーム
高校球児たちの夢舞台でもある、夏の甲子園が真っ盛りだ。2年連続出場の京都国際高校は、残念ながら初戦、延長の末で敗退したが、猛暑が続く中、熱戦が繰り広げられている。
1981年の夏、在日同胞たちを歓喜させた試合があった。今も語り継がれている報徳学園と京都商業による決勝戦だ。スコアボードには韓国名を含む同胞球児の名がずらりと並んだ。
あれから40年後の2021年。今度は民族学校の京都国際高校がベスト4という快進撃を見せ、韓国語の校歌が甲子園に流れたことも注目され同胞だけにとどまらず、本国でも大きな話題となった。
そんな高校球児たちの夢舞台でもある甲子園の土を踏み、プロへの道に進んだ在日次世代も少なくない。東京生まれの在日3世、李福健さん(27)もそのひとりだ。
小学生の時に野球に魅せられ、約20年間、「悔いのない野球人生にする」をモットーに、野球選手として様々な経験を積んだ。
日本のプロ野球というと、誰もがNPB(日本野球機構)加盟のセ・パリーグ12球団と思われがちだが、「独立リーグ」(一般社団法人日本独立リーグ野球機構)という12球団が加盟するもうひとつ機構がある。
独立リーグの選手もNPB同様にプロ契約を交わして球団から報酬を受け取っているものの、その額はNPBと比べ極めて少ない。資金源が乏しい関係で完全無給制のチームもある。
李福健さんはその独立リーグの「埼玉武蔵ヒートベアーズ」と「群馬ダイヤモンドペガサス」、そしていわゆる社会人野球チームで野球人生を過ごし、昨年、現役を引退した。
幼少期から、つねに民族名の李福健で選手登録したこともあり、ニックネームは「ぽっこん」と呼ばれ続けてきた。
李福健さんに野球への思いとリスタートとなる今後の計画について聞いた。
◆韓国人として
小学生時代、父に連れられ、民団支部の子どものイベントや済州道民会の新年会などに参加したこともあり、何の違和感もなく、自分は韓国人なんだと意識を持っていた。
また、両親の意思もあり、生まれたときから民族名だけを使用していたこともあり、子どもの頃から仲間たちからは「ぽっこん」「ぽっこん」と呼ばれていました。
◆野球に魅せられて
僕の生まれ育った墨田区は野球漫画「キャプテン」や「プレイボール」のモデル地区とも言われ、昔から野球が盛んだったらしいです。
兄も子どもの時から野球をやっていたので、試合や練習を見に行っていたこともあり、僕も野球に興味を持ちプロ野球の選手になるのが夢でした。その時は、マジでなれると思ってましたよ。
後に、その夢の厳しさを何度も味わうことになりましたが。
本格的にはじめたのは小学2年生の時です。同区の両国の小学校に通っていたので、その地域の学童野球チームに入団しました。
実は1年生の時、野球に似た「ティーボール」というゲームの大会で打ちまくり、それを見ていた学童野球チームの監督から「ぜひうちのチームに入らないか」と誘われたのが決め手となりました。
肩に自信もあり、投げるのが得意だったので、当時はピッチャーをめざしていました。後に内野手に転向しましたけど。
◆硬式と甲子園
中学からは硬式野球をやりたいと思い、「東京ベイボーイズ」というボーイズリーグのチームに進みました。高校やその先に進むことも視野に置いての選択でした。
このチームの監督が、日本ハムでも活躍した在日同胞の元プロ野球選手、森本稀哲(もりもと・ひちょり)の帝京高校時代の先輩だったこともあり、何かの縁を感じてます。
よく、ボーイズリーグをリトルリーグと同一視されがちですが、実は微妙に違うのです。ボーイズはリトルで制限されている離塁とか振り逃げが適用されているので、リトルよりも本来の野球ルールに近いのです。
この時代は主にショート(遊撃手)でしたが、時々投手もやりました。
実は、高校になるとき、絶対、甲子園に行きたいと思ってたわけじゃないんですよ。出場できるチャンスがあればいいな程度に思っていたんです。
その意味で、高校は甲子園常連校への進学を切望していたわけではなく、國學院久我山を志願しました。
それでも、実際に甲子園の土を踏んだときは夢心地になりました。
◆済州に単独で合宿
父が済州道でホテルを経営していることもあり、中学生2年生の夏休み、父が勝手に段取りし現地の済州第一中学野球部の合宿に2週間、飛び入り参加したこともありました。
韓国語は話せなかったので初日は大変でしたが、ボディーランゲージや、メンバーの中に、日本で数年間生活し、日本語が少し理解できる子もいたので、何とかコミュニケーションをとりあうこともでき、2日目からは、みんなと意気投合しました。
大学生の時にも、2年間、やはり夏休み期間の1カ月間、済州国際大学野球部の合宿に参加しました。
◆練習生からプロ挑戦
専修大学の野球部に進んだのですが、半年ほどで退部し、プロへの道をめざしました。
まず、社会人野球クラブチーム「東京メッツ」に入団し、1年半後に独立リーグの「埼玉武蔵ヒートベアーズ」に「練習生」としてプロの門をたたきました。NPBの「育成選手」のようなもので、1カ月後に選手登録されました。
でも翌年、いわゆる「戦力外」通告を受けたため、「群馬ダイヤモンドペガサス」に同じく練習生から再挑戦し、入団できました。22歳の時でした。
プロと言っても月給10万円程度で、シーズン中のみの支給でした。
それでも、野球選手として経験できたことは僕にとって、一番幸せな時でした。
◆安権守との出会い
大学時代に同じ在日3世の野球選手と知り合ったことが、僕にとっての野球人生を大きく変えるきっかけになりました。
一歳年上の先輩で早稲田実業出身の安田権守(こんす)(韓国名・安権守)選手です。夏の甲子園にも出場し、早稲田大学、東京メッツ、群馬ダイヤモンドペガサス、埼玉武蔵ヒートベアーズ、カナフレックスを経て、今は韓国の斗山ベアーズにいる選手です。
東京メッツに誘ってくれたのは、その安先輩でした。僕が渡り歩いたチームも同じなんです。
僕も韓国のプロ野球をめざして、一度、合同トライアルに参加しました。不合格でしたけどね。
一番の思い出はNPBから本塁打
◆印象に残る試合
群馬でやってた時代が一番楽しかったですね。独立リーグとNPBとの交流戦があるのですが、楽天イーグルスとの試合でホームランと二塁打で5打点をあげ、ヒーローインタビューも受けたのが一番思い出深いですね。
僕自身、NPBに行くのが大きな目標でしたから、ファームと言えども、楽天との試合で僕のバットでチームの勝利に貢献できたのが、とてもうれしかったです。
もうひとつは、独立リーグの日本一を決める、2018年の「グランドチャンピオンシップ」で優勝したとき、ホームランを打ったのも思い出深いですね。
NPBの日本シリーズのように、独立リーグも四国アイランドリーグ(IC)とベースボール・チャレンジ・リーグ(BC)のそれぞれの優勝チームが日本一の座をかけて争うチャンピオン大会です。
香川オリーブガイナーズとの初戦でした。スタメン出場ではなく、途中出場だったんですが、このチャンスに決勝点となるホームランを打って、ヒーローインタビューを受けた事が印象に残ってます。
◆後輩たちに伝えたい
これからもプロ選手をめざす子は多いと思いますが、まずは、しっかり体作りをしてほしいですね。
一般的に野球は投手も野手も身長が高いほうが有利なんですよ。その証拠にプロ野球で活躍する選手が日本人の平均身長をはるかに上回っていますから。もちろん、身長が低くてもしっかり活躍している選手もいますけど。
もちろん食事で栄養を摂るが基本ですが、闇雲に体重を増やすのではなく、栄養管理等も必要です。今は成長期に欠かせない栄養素がまとめて取れるサプリメントもあります。
そして、とにかく野球を好きであってほしいですね。何事も好きでなければ続けられないし、やってても面白くないですから。
◆今後の目標
昨年引退して、僕にとってもひとつの区切りとなりました。でも僕にとっての野球は、これからも「生き甲斐」でありたいと思っています。
将来、できれば、僕を育ててくれた学童野球チームの子どもたちに野球を教えてあげたいですね。もちろん、在日の子たちも含めて。
また、野球も含めてスポーツをする上での体作りを含めた、アドバイスもしてあげたいですね。
その意味でスポーツインストラクターのようなな事業を興したいと思っています。
李福健(り・ぽっこん)
1994年4月7日、東京生まれの在日3世。
身長170㎝、体重78㎏。右投・右打。
ニックネームは「ぽっこん」
小学2年から地元の学童チームで野球を始める。
・ポジションは内野手。
◆経歴
・国学院久我山高校
・専修大学
・社会人 TOKYOMETS(2013~2014年)
・独立リーグ 埼玉武蔵ヒートべアーズ(2015年)
・独立リーグ 群馬ダイヤモンドペガサス(2016~2019年)
・社会人 カナフレックス(2020~2021年)
◆全国大会
・第83回センバツ高校野球(2011年)
・第46回社会人野球日本選手権(2021年)