掲載日 : [22-09-06] 照会数 : 5104
関東各地で関東大震災犠牲同胞慰霊祭
[ 祭壇に献花する尹徳敏駐日韓国大使(韓国中央会館) ]
[ 今年が最後となった船橋支部での追念で追悼辞を述べる張恒星支団長 ]
[ 民団埼玉本部の役員らは3カ所での慰霊祭を巡回してて参列した(左から上里町、本庄市、熊谷市) ]
[ 韓国人慰霊碑の前にたたずみ、李団長を先頭に一人ずつ香を手向けた ]
関東大震災から99年を迎えた1日、東京、神奈川、千葉、埼玉の各地でも民団の主催する慰霊・追悼行事が行われた。各地とも来年の「100年」を見据えて、「人災を二度と繰り返すことのない社会にすることこそが私たちの使命」との誓いを新たにした。
船橋支部会館最後の追念式
【千葉】民団千葉・船橋支部(張恒星支団長)の「追念式」は同支部会館で営んだ。この2年間、コロナの関係で民団と婦人会の支部役員だけが参列し、ひっそりと開催してきたが、同支部での開催が最後となる今年は、例年になく多くの同胞が参列した。
同支部の民団と婦人会役員をはじめ、千葉県が地元でもある、民団中央本部の呂健二団長と李根茁副団長、駐日韓国大使館の裵京澤総領事も参列した。市川・浦安支部の金鎭得顧問、千葉韓国教育院からは李淳任院長、横浜幸銀船橋支店長ら20数人が献花に訪れた。
追念式はまず、震災が発生した午前11時58分に参列者全員で黙祷を捧げ、張支団長の代表献花と追念辞で始まった。
張支団長は「全く根拠のない流言蜚語が飛び交い、罪のない同胞たちが無残にも虐殺された。99年を経た今でも、断腸の思いだ。改めて参列された皆さんとその魂を慰めたい」としながら、「日本国内では近年、『虐殺は事実ではない』とか、『暴動を抑止するための正当防衛だ』との言い換えがネット上にあふれている。真の歴史を後世に語り継ぎ、人災を二度と繰り返すことのない社会にすることこそが私たちに課せられた使命だと強く認識する」と強調した。
大震災当時、通信網が途絶したなか、船橋の海軍東京無線電信所船橋送信所は流言蜚語を日本全国に伝える役割を果たした。そればかりか、船橋送信所は周辺住民に武器を渡して警備させ、自警団事件にも大きくかかわった。
呂健二団長は「来年、100年を迎えるが、民団としても、この問題をしっかりと再確認し、悲惨な歴史の教訓として未来に語り継ぐ契機にしよう」と述べた。
あわせて、同胞300人の命を守り抜いたという、警察署長のエピソードなどを紹介しながら、『忘れることはできなくても、許すことはできる』と述べ、た元南アフリカ大統領、ネルソン・マンデラ氏の言葉を引き合わせながら、「この言葉を大事にしながら、未来志向で共生社会実現を」と強調した。
裵総領事も「震災で犠牲となった同胞を慰霊する追悼行事が毎年、民団各地で開催されていることに敬意を表すとともに、忘れてはならない。来年100年という節目を迎えるに当たり、大使館をはじめ韓国政府としても高い関心を持っており、積極的に支援していく」と述べた。
流言飛語を信じた自警団は余震が続く東京方面から避難してきた朝鮮人を市川、船橋などで待ち構え、虐殺事件をおこした。当時、建設途中だった北総鉄道(現・東武野田線)の工事で働いていた朝鮮人労働者とその家族も犠牲となった。
千葉県では船橋のほか、成田、市川、習志野、千葉市などでも同胞が犠牲となったが、同支部で開催してきたのは、船橋地域での犠牲同胞が最も多いと言われていたからだ。
ただ、毎年、本部をはじめ県下支部のメンバーも参列しており、事実上の民団千葉全体の追念式となってきた。
張支団長によると来年、震災から100年を迎えることを契機に、開催地を本部に移すことを検討しており、事実上、今年が最後の開催となる。
尹徳敏大使も参列…東京本部は中央会館で
民団東京本部(李壽源団長)は、東京・港区の韓国中央会館で挙行した。
今年も新型コロナウイルス感染拡大の関係で参加対象を制限。本部と各支部代表、婦人会、青年会など傘下団体から約70人と駐日韓国大使館から尹徳敏大使らが参列した。
東京本部の徐廷敏副団長が経過報告で「99年経った今も日本政府による真相究明、犠牲者に対する謝罪や補償責任も果たしていない」とし、「そればかりか、近年、横行しているヘイトスピーチと歩調を合わせ、歴史の修正や外国人を排除する風潮は、人種差別を助長し多くの在日同胞社会の安全と生活を脅かしている」と強調、「民団は、これからも在日同胞社会の安定と共生社会の実現のために邁進していこう」と呼びかけた。
尹大使をはじめとする代表献花後、李団長が追悼辞で「私たちは今一度、この地で子々孫々が安心して平和に暮らせるよう、在日同胞社会を民団を中心に新定住同胞と団結し、地域住民として共生共栄社会の構築に尽力する」と霊前に誓った。
この後、参列者全員が順に献花をした後、大震災が起きた午前11時58分に約1分間の黙とうをささげた。
埼玉は上里町・本庄・熊谷の3カ所で開催
【埼玉】埼玉では東京から被害を恐れて非難してきた同胞が、「朝鮮人が放火した」「暴動を起こした」といったいわれのないデマを信じた自警団によって虐殺された。
犠牲者数について正確な記録は残されていないが、民団埼玉本部(崔洛文団長)は当時の報道や資料などをもとに少なくとも260数人だったとみている。
事件現場を抱える上里町と本庄、熊谷両市が1日、今年も独自に犠牲者を弔う催しを行った。コロナ禍のため3自治体とも縮小開催。民団埼玉本部も参加者を10人前後の代表だけに絞った。民団中央本部から鄭夢周副団長、駐日韓国大使館から梁鎬錫主席教育官もそれぞれ参列し、犠牲者の冥福を祈った。
10時から安盛寺で始まった上里町主催の慰霊祭で山下博一町長は「このような惨事が2度と起きないよう、歴史を教訓にしていかなければならない」と呼びかけた。山下町長も小学生のころ、震災で犠牲(虐殺)者が出たことを父親から聞いたことがあるとのこと。
本庄市の追悼式は長峰墓地で行われた。吉田信解市長は「天災によって引き起こされる人災を絶対避けなければならない」と述べた。
熊谷市は市営斎場で開いた。小林哲也市長は「再びこのような過ちを起こさないため、歴史を公正に正しく語り続けていかねばならない」と強調した。
民団神奈川は宝生寺で慰霊法要祭
【神奈川】民団神奈川本部(李順載団長)は1日、横浜市南区堀ノ内の高野山真言宗の仏教寺院宝生寺(佐伯真魚住職)境内で慰霊法要祭を少人数で執り行った。境内には太極旗が掲揚され、駐横浜総領事館から尹喜粲総領事、民団中央本部から金勇光副団長が参列した。
同寺には当時の社会事業家、李誠七氏が納めた位牌がある。表には太極旗が描かれ、中央に「大正十二年九月二日虐殺韓国人諸霊位」と書かれている。位牌に記した9月2日という日は「朝鮮人殺しが始まった悲しい思い出の日」(李氏の話)だった。
本堂で読経の続く中、震災が勃発した11時58分になると、民団職員が境内の鐘を打ち鳴らし始めた。慰霊の打鐘は15秒間隔で9回続いた。これは震災当日、人体が感じたとされる余震936回を象徴したものと思われる。
読経が終わると、参列者は「関東大震災 韓国人慰霊碑」の前にたたずみ、李団長を先頭に一人ずつ香を手向けた。碑は1970年9月1日の例祭の折、孫張翼氏、田炳武氏、鄭東仁氏が中心となり起草。71年に建立された。土地は先代の佐伯真光住職から提供を受けた。
慰霊法要祭は大震災翌年の1924年から継まれている。李氏が亡くなってからは民団神奈川本部が遺志を引き継いできた。