掲載日 : [21-06-27] 照会数 : 9061
張明夫投手の生涯を映画化…「玄界灘の落ち葉」続編の制作進む
[ ドキュメンタリー映画「玄界灘の落ち葉」続編のポスター ]
[ 続編制作に意欲を見せる李泳坤監督 ]
韓国プロ野球界伝説のスーパースター
在日の祖国献身描く…李泳坤監督
韓国プロ野球黎明期の83年に三美ス‐パースターズ(当時)に入団し、30勝16敗6セーブという驚異的な成績で最多勝を獲得した在日同胞、張明夫投手の生涯をテーマとしたドキュメンタリー映画「玄界灘の落ち葉」の撮影が進んでいる。作品を企画した李泳坤さん(28)は張選手の人生を通して、在日の献身的な祖国愛を思い起こすきっかけにしていきたいと、日本留学中に手掛けたテーマをもとに続編として再取材している。制作にあたっては公益財団法人韓昌裕・哲文化財団から助成を受けた。
張選手は江夏豊と並ぶ広島カープの元エースとして79、80年の連続日本一に貢献した。80年の勝率0・714は当時としてはリーグ最高記録だった。82年に広島カープを退団。「母国で野球ができるのなら」と翌年、三美スーパースターズに入団した。
移籍初年度は30勝16敗6セーブという驚異的な成績で最多勝を獲得。前年15勝60敗で最下位に沈んだチームをAクラスに引き上げた。年間100ゲームで30勝はいまなお不滅の韓国プロ野球記録として記憶されている。力任せの投球が主流だった韓国プロ野球界に日本のプロ野球で養われた打者との駆け引きの巧さで力を省く技術を伝え、韓国プロ野球のレベルアップに貢献した。
張選手は韓国プロ野球界に突如出現した「スーパースター中のスーパースター」であったが、チームメートたちは日本から来た同胞を最後まで仲間として認めようとしなかった。年棒が当時としては破格だったことも影響したといわれている。肉体の酷使もあり翌年から成績も下降していった。金銭トラブルに私生活の乱れが重なり、91年5月に日本に戻った。
李監督は張選手について、「ハイレベル野球を駆使し、韓国でプロ野球普及に力を入れましたが、結局、外国人扱いされた。逆に日本でも(日本国籍を取得したのにもかかわらず)日本人として扱われずに生涯を終えた寂しい人生でした」と話す。
張選手が晩年、和歌山で経営していた雀荘の壁には「落ち葉は秋風を恨まない」と書かれた1枚の紙が残されていたという。
李監督は「この言葉に韓国と日本に挟まれ、苦しんでいた数多くの在日同胞が思い浮かびます」と話す。「玄界灘は彼にとって、日本にも韓国にも属せなかった人たちの故郷ではないかと思います。そんな故郷のはざまで落ち葉のように去っていった張選手を思い浮かべながらタイトルを『玄界灘の落ち葉』としました」。
制作は韓国国内で生前の張選手のことを知る関係者が高齢だったり、すでに亡くなったりしており「時間との闘い」となっている。日本でも入国規制が緩和されるのを待って広島、大阪、東京、青森での撮影を予定している。完成は22年7月としてきたが、先送りする可能性もあるという。完成すればまず韓日両国の公募映画祭での公開をめざす。日本では山形ドキュメンタリー映画祭に出品するのが目標だ。
李さんは「私は韓国で生まれ育ったものですが、母国の発展にいろいろと手助けしてくれた在日同胞の皆さんをこれからもいろいろな方向で記憶していきたい」と話している。
張明夫選手 登録名は78年まで松原明夫、79年から福士敬章(ふくしひろあき)。1950年鳥取県生まれ。ドラフト外で読売ジャイアンツに入団後、南海ホークス、広島カープで活躍し82年に退団した。74年に日本国籍取得。韓国からの帰日後、実母の郷里、和歌山県みなべ町で雀荘を営んでいたところ05年に急死した。54歳だった。