掲載日 : [21-02-25] 照会数 : 11559
「共生」を求め半世紀…裵重度氏と田中宏氏が記念講演
[ 田中宏・一橋大学名誉教授(左)と裵重度・社会福祉法人青丘社理事長 ]
70年代初頭から市民レベルで在日韓国人の権益擁護運動を牽引してきた裵重度さん(社会福祉法人「青丘社」理事長)と田中宏さん(一橋大学名誉教授)が横浜と川崎市でそれぞれ講演し、半世紀にわたる歩みを振り返った。裵さんは「日立就職差別闘争」を契機に「民族差別と闘う神奈川連絡協議会(神奈川民闘連)」の創設に携わり、「共に生きよう」を実践してきた。同じく、田中さんはこの間、運動のほとんどの場面で主体的に関わり、「接着剤」としての役割を果たしてきた。
道なき道を行く闘い実践…裵重度・社会福祉法人青丘社理事長
日本人と韓国・朝鮮人を主とする在日外国人が、同じ川崎市民として相互にふれあい共生をめざす全国初となった
交流施設「川崎市ふれあい館」設立に向け奔走。川崎市外国人市民代表者会議の設置、川崎市多文化共生社会推進指針の策定にも尽力した。現在は桜本保育園、桜本文化センターやふれあい館の管理運営を行っている社会福祉法人青丘社の理事長を務める。
市民運動とのかかわりは1970年、在日2世の朴鐘碩さん(当時19)が日立製作所を相手取って民事訴訟を闘った「日立就職差別闘争」だった。裵さんは「当時は日本で生まれて育った在日2世が日本社会に出ていくとき。在日の歴史を顧みるうえで画期的事例」と振り返った。
裁判戦略をめぐっては弁護団と運動する側とは意見の食い違いがあったという。弁護団は「民族差別という心の問題を裁判で証明するのは不可能。それでは勝てない」と主張。裵さんは「民族差別に基く就職差別であるということを訴えなければこの運動は意味がない」と主張。運動側の主張が勝訴につながった。
闘いでできた各地のつながりをその次につなげていこうと自然発生的に生まれたのが在日韓国・朝鮮人と日本人との緩やかな連合体「民族差別と闘う連絡協議会(民闘連)」だった。当時の支援者、佐藤克己さんによれば「道なき道を行く」闘いだった。
関東では裵重度さんら在日2世が運動の中心を担い、地域に住む在日同胞の親たちの話を聞きに回った。そこから児童手当、入居差別、就職差別の問題などが浮かびあがり、告発・糾弾闘争を繰り広げていった。子どもたちには「自分の民族を卑下するものではない」ということを伝えるために保育園を立ち上げ、子ども会活動にも取り組んできた。
一方では「自分たちの住む日本社会を少しでも良くしていきたい。そのために自分は何ができるか。告発・糾弾するだけでなく一緒になって汗をかいていこう」と行政と足かけ7年間の交渉を重ね、88年6月に「ふれあい館」がオープンした。
(2月19日、横浜市成人教育講座「共生への道のり‐在日を生きて」)
日本人の歴史認識を問う…田中宏・一橋大学名誉教授
田中さんは講演で「歴史に向き合うということがいかにいいかげんか」と、日本社会のありようを批判した。
たとえば、64年から再開した戦没者叙勲だ。この2年前、シンガポールでは日本の侵略戦争による民間人犠牲者の共同墓地が発見されていた。64年は日本が経済成長のまっただなかにあり、東京オリンピックが開催された年でもある。田中さんは「浮ついている」と当時の世相に疑問を投げかけた。
オバマ大統領が広島を訪問し、日本人被爆者と対面したのは16年のこと。米国は原爆投下を「戦争を早く終わらせるために必要だった」と肯定してきただけに「勇気のあること」だった。田中さんはオバマ大統領の傍らに立つ安倍首相(当時)を見ながら、「俺も『ナヌムの家』に訪ねようとならないのか」と思ったという。
講演ではこのほか、日系カナダ人への謝罪と補償に取り組んだカナダ政府の誠実な姿勢や日本人のシベリア抑留者の墓に献花したソ連のゴルバチョフ大統領(当時)のことも取り上げた。
田中さんは「アジア文化会館」に勤務していた当時、留学生との交流を通じて「歴史認識」について学んだ。「過去と向き合うことはいまとつながっている」。いわば田中さんの「原点」がここにある。
63年11月、アジア出身の留学生に「植民地支配の象徴である伊藤博文の肖像画を1000円札に載せる感覚がわからない。在日韓国・朝鮮人の気持ちを考えないのか」と問題提起を受け「自らの感覚のズレ」に気づかされ、鮮烈なショックを受けた。
東大に留学していたベトナム人は東大生にフランス語の練習台にされたと訴えてきた。ベトナム人にとってのフランス語は「屈辱の言語」。「日本の一流エリートは植民地支配について何を学んでいるのでしょうか。日本の将来は危ういね」と嘆いてみせたという。
この日、田中さんの「在日とともに歩んだ半世紀」を『「共生」を求めて』と題して出版したジャーナリストの中村一成さんが同席した。
(2月13日、川崎市ふれあい館「『共生』を求めて」)