掲載日 : [21-03-17] 照会数 : 9824
東日本大震災10年、助け合い再起の道のり…東北3県の民団・同胞
[ 宮城県の洪景任さんと子供たち ]
東日本大震災から10年。当時、民団では被害が甚大だった、宮城、岩手、福島の3県を中心に、救援物資の提供や避難所での炊き出しなどを大々的に展開した。10年を経た現状を3地方の事務局長と団員らに聞いた。
家族が協力、営業再開
【岩手】朴明子さん(79、岩手県下閉伊郡山田町)は「ほんとうに10年経ったんですね」とつぶやくように語った。震災で最愛の父親を亡くし、津波で自営の喫茶店、カラオケ店、不動産店の3つが全壊した。
家族が力を合わせ、3年前にレストランを開業、カラオケ店も昨年5月から営業を再開し、不動産店も再建できた。朴さんは「とにかくまじめにやれば生きていける状況になった。(復旧・復興については)その最中だと思っている」。
朴夏博さん(71)は山田町で自宅と中華料理の店舗を津波で流された。しばらく隣接する宮古町でこじんまりと営業していたが、2年前には地元の山田町に戻って中華料理店「食道園」を新規オープンした。家飲みに合わせた家庭ではつくれないようなオ‐ドブルのテイクアウトが好評だ。
「宮古では(よそ者なので)ちょっとしたことでカドがたつ。神経が疲れ、精神的にまいりました。地元に戻れてようやく気持ちが楽になりました」。あと5、6年は現役を続ける覚悟だ。
高浩暎さん(52、大船渡市)は津波で経営する焼肉店が全壊したものの、その年の12月には別な場所で再開できた。いまはコロナ禍の影響が深刻でテイクアウトが頼りだが、「自分の中では8割復興できている」。
毎年6月と12月の2回、被災地を回り、同胞の安否を確認してきた民団岩手本部の姜英萬事務局長は被災地の今を次のように述べた。
「住民は2、3年前に仮設住宅から復興住宅に移り、住まいは安定してきた。でも、町を見ると空き地が目立つし、安心して住める雰囲気ではない。民団はつねに『同胞のことを忘れてはいませんよ。皆さんの後ろには民団がついていますよ』と安心してもらえるようなメッセージを発信し続けていきたい」
避難生活続く人も
【福島】民団福島本部では10年前の震災以来、定期的に団員宅への家庭訪問を続けている。昨年から続くコロナ禍では団員宅を訪問しマスク、消毒液などの配布を続けている。
2月13日に発生した福島沖地震では民団本部会館をはじめ、一部団員の家屋や店舗などでも被害が出た。自身が経営するアミューズメント店舗の屋根が崩れた孫哲鎬団長は被災者でありながらも、地震の翌日から民団事務所に赴き、銭相文事務局長をはじめ事務局のメンバーと民団事務所に総出で電話での安否確認と被害家庭への訪問を行った。団員たちから聞こえたのは地震が来た瞬間「10年前の悪夢」がよみがえったという。
銭局長によると「もちろん驚きを持ちながらも、10年前の経験もあり、皆さん一人ひとりがあわてずに適切な行動をとっていました。日頃から地震の際の正しい心構えを身につけているようで、柔軟に対応していました」と話す。
10年前、原発事故のあった福島第一原発近隣に住んでいた同胞たちも非難移住したままだ。半径8㌔圏内の浪江で被災した張賢淑さん(61)は南相馬市の借り上げアパートでひとり暮らし。当時の職業はゴルフ場のキャディだった。営業再開後に復職したが、客数は激減し収入は半減。その後、コンビニのパートなどに転職しながら、細々と暮らしている。
【宮城】震災当時、石巻市に住んでいた洪景任さんは津波の被害のため、現在は仙台に暮らしている。この10年をふり返り、民団宮城県本部に手記を寄せた。
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身重で被災、夫亡くし
大切な人(夫)を亡くして、冷静に考えることができるまで9年の月日がかかりました。何が起こるか分からない不安な日々だからこそ、今日1日を大切に生きて来られたのかも知れません。
10年前の「あの日」、私は妊娠33週目でした。今までの妊娠とは違い、体が重くて仕事はできませんでした。「今日はなんだか眠くて、家に居たら寝てしまい子どもたちを迎えに行けない」と思いそのまま買い物に出かけました。
その後、子どもたちを迎えに行きました。長女を車に乗せて間もなく、一気に恐怖が襲ってきました。それは、2011年3月11日2時45分、東日本大震災発生。私は周りの様子を見て急いで保育所に行きました。
次女と長男も無事に保護して家に戻ることができました。ですが、パパは体の震えが止まらない私に「トンネルの前に避難して」と言い残し、水門を閉めに行ったのが最後の姿でした。泣く暇もなく3月14日には自衛隊のヘリコプターに乗って避難しました。
前谷地小学校で一晩過ごし、翌日から河南体育センターに避難し、4月11日の朝まで過ごしました。夕方からは駐仙台韓国総領事館で過ごすことになりました。赤ちゃんが生まれるまで生活していました。
このように私たちは、数多くの方々に助けられて生きて来ました。そして、民団宮城本部の方々は今も私たちを案じて、色々と尋ねては訪れて下さいます。
コロナ禍での1年は完全自粛、子どもたちはそれぞれ夢に向かって勉強に励んでいます。私は「備えあれば憂いなし」を肝に銘じ、試行錯誤を繰り返しながらマスク作りに励んでいます。
私の願いは人々が優しい気持ちを持って人に接することです。「自分より他人を愛する心、それは世界を救います」