掲載日 : [21-01-01] 照会数 : 12310
辛丑年 牛のようによく食べ健やかに
[ 作・韓国民画作家 池貴巳子 ]
見た目と違って賢く力強い働きもの
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牛を飼う子供はまだ起きていないのか
峠の向こうの長い畑はいつ耕そうとまだ朝寝坊をしているのか
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この時調(韓国の短歌)は、朝鮮時代末期の南九萬というソンビ(学識と人格を備え、儒教の教えを身につけ実践する人物)が詠った短歌で、「牛」が登場している。農業が発展していただけに牛はそれだけ重要な動物だった。農村では、明け方から牛と田畑に出て働くのが農民の生活習慣だが、寝坊した農民を怠け者の官僚たちにたとえて作ったものだ。
牛は人の話を聞いている
朝鮮時代初期に黄喜という有名な政治家がいた。彼が宰相だった時の話だ。農村の生活を見ようと平服を着て田畑の道を歩いていると、遠くで農夫が2頭の牛を使いながら畑を耕していた。
黄宰相は遠くの農夫が聞こえるように大きな声で話しかけた。「そこの牛2頭のうちどちらの牛が良く働きますか」
黄宰相の言葉を聞いた農夫は手を止め、長い田畑の道を歩いて近づいてきた。「左の小柄な牛の方がよく働きます」と答えた農夫は急いで戻ろうとするので黄宰相は、そのお礼に「そこで大きな声で答えてくれてもよかったのにごめんなさい」と感謝の言葉を伝えた。
農夫は振り向きながら「いいえ、褒められていない牛は、褒められた牛と比べられて落ち込むでしょう」と答えた。
優劣の話は牛が聞いてはいけない、という農夫の説明に黄宰相は「政治もそうしなければならないと悟った」という。
牛に乗って、お経を書いた元暁大師
牛を崇めるエピソードは三国時代にもある。『三国遺事』には高僧、元暁(ウォンヒョ)大師が牛の両角の間にすずりを置き墨をすりながら本を書いたのが有名な『三昧経疏』だ。牛の沈黙と忍耐力には仏教の教えが隠されているということだ。
百済地方で活動した眞表律師も牛の忍耐力と沈黙を尊敬した僧侶だ。彼が山で厳しい修業を終え錦山から俗離山に行く途中、牛車に遭遇した。牛は眞表律師を見て、ひざまづいて泣いたという。 牛の飼い主が牛の泣く姿を変に思い眺めていると、律師は「牛は見た目には何の考えもない愚かな生き物のように見えるが、本当は世の中を知る賢明な生き物です。私が修業の末に戒法を伝授されたということに気付き、仏法の重大さを感じ泣いたのです」。
牛は葬儀で祀る神聖な動物だった
牛は全世界に12億頭くらいいるとされている。現在、アジアには中国の黄牛、韓国の韓牛、日本の和牛などがある。
牛の絵は紀元前の高句麗の安岳壁画にも登場しているが、記録としては紀元前の満州の扶余にも残っている。中国の歴史記録には、漢民族が建国した扶余では牛を葬儀で祀る神聖な動物として扱い、牛の足裏を見て占ったと記されている。
動物の名が官僚の地位の名称として使われたが、大臣の名称にも牛の名前があったという。後に扶余の子孫が韓半島で建てた百済でも、牛は神聖な葬儀用に飼育されたという。
中国大陸から持ち込まれたと考えられている牛は、高句麗の人から牛皮の使い方を教わり、また乳牛の飼育方法や牛乳の飲み方も教わったと、日本書紀に記録されている。
天然痘予防法は牛からみつけた
「乳搾りの女性は決して天然痘にかからない」という言葉は、(イギリスの天然痘ワクチンの開発者)エドワード・ジェンナーにとって幼い頃からよく耳にした言葉だった。大人になってからも彼は、この言葉の真実を求めるために研究に没頭した。
彼が発見したのが天然痘のワクチンだ。韓国でも昔から天然痘が蔓延し、丁若鏞、池石英といった学者らも牛から医学的な知識を得ようと努力したようだ。牛が人類に貢献した功績である。
ソルロンタンと牛にまつわることわざ
朝鮮時代、年明けには神農氏(農作業の神)と后稷氏(農作業の神)にその年の豊作を祈願する祭祀・先農祭(ソンノンジェ)は絶えることはなかった。
王が主管する先農祭には必ず牛を献上したが、牛の頭は祭祀の膳に、残りの肉は民が分けて食べ、宮城の周辺の村では、この肉を、供物を分け合う儀式である直会(なおらい)として食べた。
韓国を代表する食べ物で有名な「ソルロンタン」の始まりは、先農が変化したものという説明もあって祭祀の後、豊作を祈願する直会の儀式から由来されたようだ。
「牛を失ってから牛小屋を直す」「牛のように働いてネズミのように食べる」「牛のようにたくさん食べる」「鶏が牛を見るが如く、牛が鶏を見るが如く」「土俵の勝者は牛に乗る」などは健康で力の強い農牛を中心に生まれたことわざだ。
池楨官
(2021.01.01 民団新聞)