同胞の母国訪問 容易に
山口県の下関市と韓国釜山市を結ぶ関釜・釜関フェリーが6月で就航50周年を迎えた。これを記念して関釜フェリー社では昨年10月から2カ月間、50%割引キャンペーンを実施した。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の影響で今年3月から旅客運航は休止している。本来ならば、下関及び釜山で行われるべき記念行事や旅客運航の再開の見通しも不明のままだ。「海よりも速く、空より安く」を実現してきた関釜・釜関フェリー。この50年間、約576万人が利用した。玄界灘を結んできた韓日懸け橋の旅客船に深い思いを抱く在日同胞は多い。
コロナ拡大で旅客は休止中
◆起源は関釜連絡船
下関と釜山との航路は、1905年に就航した関釜連絡船を起源としている。1910年の韓国併合による植民地によって日本の国内路線になり、その後は日本と朝鮮(当時)、のちには大陸側の鉄道を経由して満州や欧州をもつなぐ重要路線となった。
ただ、この連絡船は日帝時代に多くの同胞を徴用などで連れ去った「哀愁の別れ船」の別称でもあった。
1945年8月15日の祖国解放後、20年以上に渡って、この区間の定期航路が途絶えた。
◆国交回復で復活の機運
1965年に韓日国交が樹立すると、1967年に行われた韓日経済閣僚会議で関釜航路復活の話題が上がり、機運が高まった。
釜山市と下関市の市長が航路計画の窓口役となり計画を検討し、韓日双方に航路を担当する法人を設け共同運営する運びとなった。
1969年6月21日、下関市に資本金1億800万円で日本側の運航会社である「関釜フェリー株式会社」を設立。
一方、韓国側は民団の前身でもある朝鮮建国青年同盟(建青)東京本部副委員長を務め、後に民団中央本部顧問および在日本大韓体育会会長を歴任する鄭建永氏が1969年8月30日に資本金60万ドル(当時のレートで約2億円)で「釜関フェリー株式会社」を釜山に設立し、初代会長に就いた。その後、民団山口本部団長を歴任した朴鍾氏が同社を継いだ。
翌1970年6月に25年ぶりに両市が定期運航の海上交通で結ばれることになった。「哀愁の別れ船」だった日帝時代の「連絡船」と違い、韓日新時代を象徴する「虹の懸け橋」をトレードマークに門出を迎えた。
当初は関釜フェリー1隻による隔日運航だったが、1983年には韓国側の釜関フェリーが船舶を保有・運航することで、共同運航による毎日就航が実現した。
◆就航当初は赤字
『長距離フェリー50年の軌跡‐SHKライングループの挑戦‐』(ダイヤモンド・ビジネス企画)によると、無事就航はしたものの、当初の営業成績は余り振るわなかった。貨物はコンテナが数本、乗客数も乗員よりやや多い程度だった。宣伝活動が十分でなかったこともあったが、朝出発し夜に到着するという時間的な不便さも影響した。このため、就航から半年して、夕方5時に出発し、翌朝8時に釜山に到着するダイヤに変更した。
これによって、船の中で宿泊し、翌日は朝から貨物の運送や観光をすることが可能となり、利用者が大きく増加した。また1971年に国鉄(現JR)のコンテナも受け入れたことで翌年から黒字に転じた。
2世が幅広く利用…母国修学・夏季学校・修学旅行
◆同胞社会にも朗報
同フェリーの就航は、在日同胞たちにとっても母国訪問の大きなアクセス手段となった。
就航した年の大阪万博でも多くの韓国人参観客が利用した。1966年から始まった、在日2世たちの母国夏季学校は、それまで、韓国海兵隊の軍艦を利用していたが、70年からは関釜・釜関フェリーに切り替えた。
航空便より数倍安価なフェリーの就航は当時の母国修学生たちにとっても朗報で、自身の往来だけでなく、自家用車を運んで母国で乗る学生たちも少なくなかった。あわせて、地元山口県を中心に民団や青年会の母国訪問行事、東京韓国学校の修学旅行など、幅広い分野で利用が始まった。
◆「リトル釜山」の下関
さらに、多くのポッタリ・チャンサ(運びや商売)の中・高年のアジュンマ(オバサン)たちがフェリーを利用して玄界灘を往来していたため、下関駅周辺には多くのアジュンマたちで賑わった。
JR下関駅近くには「リトル釜山」と呼ばれるグリーンモール商店街がある。韓国の食材等を扱うお店や焼肉店、韓服店などが並んでおり、下関版「コリアンタウン」でもある。毎年11月23日の「いい、プサンの日」に「リトル釜山フェスタ」を開催している。
フェリーの思い出を語る
フェリーが就航してから、多くの在日同胞が下関と釜山を行き来してきた。愛用してきた在日同胞にその思い出とエピソードを聞いた。
林源玉氏(民団山口本部団長)
◆釜山港で流した涙
初めて関釜・釜関フェリーに乗ったのは就航した年の1970年10月です。当時23歳で、親族訪問のためでした。
フェリーが下関を夜に出港すると夜中の3時頃には、釜山港沖に到着。税関が開くまで朝まで待っているとき、船上から釜山の夜景が目に入ったとき、「ここがアボジ、オモニが生まれた国だな」との思いと同時に、自然に涙があふれました。これが、やはり民族の血だと思いました。
その後も年に2~3回、親族訪問や青年会の母国訪問事業でもフェリー活用しました。フェリーに乗って下関に帰ってくるというパターンでした。関釜フェリーはこれまで100回以上利用してきました。
◆祖国が身近に
民団主催の親睦旅行や青年会、オリニの母国研修などでもよく利用しました。在日同胞が母国を訪問しやくなり、韓国がとても身近になりました。当時、青年会中央本部の母国研修や毎年4月5日の「植樹の日」に合わせて実施した「60万のセマウム・シムキ(新しい心を植える)運動」も利用していましたね。
◆活気溢れる下関
また、在日同胞1世たちが「故郷に錦を飾る」ために、おみやげをたっぷり詰め込んだバッグを両手に持っていく姿、さらに高級乗用車をフェリーに積み込んで誇らしげに乗って行った顔が今でも印象に残っています。
また、下関はアジュンマたちのポッタリ・チャンサが多く、腕時計や電化製品、傘などの日本製品、そして韓国では貴重だったバナナなど、何を持っていっても喜ばれ、その儲けたカネで生活を支えていました。
◆空前の韓流ブーム
2002年の韓日共催ワールドカップ、2003年「冬のソナタ」など、空前の韓流ブームで、日本人の訪韓客が急速に増えました。
関釜フェリーも利用者が増え続けて、最盛期には年間26万人の利用者を記録しました。そしてフェリーを使った韓日貿易も増え続け、下関経済の活性化に貢献しています。今後も民団の研修や親睦旅行をはじめ日韓・韓日親善協会の交流、親族訪問に利用します。
◆下関は在日のルーツ
関釜連絡船の時代は良い事よりも悪いことの方が多かった気がしますが、下関は在日同胞にとって、日本におけるルーツとも言える地です。
今はコロナのため、旅客の取り扱いの休止が続いていますが、韓日の懸け橋となってきた関釜フェリーでの往来が一日も早く再開できることを心より願っています。
林源玉 下関生まれの在日2世で73歳(自営業)。1973年に在日韓国青年会山口・下関支部の初代会長に就任。青年会山口本部を起ち上げの結成して初代会長に就任。民団下関支部の支団長、山口本部監察委員長、議長を経て現在は団長。
鄭夢周氏(民団中央副団長)
◆玄界灘への想い
在日韓国人にとって、「玄界灘」は格別な意味があると思います。韓日・日韓間の隔てる地理的条件にとどまらず、荒れる玄界灘の波が、揺れ動く心の葛藤を象徴する存在のように思えます。
私は10代後半から30代前半の母国修学生時代と青年時代、年に2度は必ず玄界灘往来の体験を持つ在日韓国人の一人です。
1960年代後半、羽田とソウルを飛ぶ航空便もありましたが、便数も少なく、高価で学生の身分には贅沢すぎると言われていた時代でした。
当時、自宅からソウルの下宿までたどり着くには2泊3日の長丁場でした。今思えば大変だったなぁと思う半面、玄界灘を越えソウルでの母国修学生活に夢を膨らませて船の旅をする愉悦の時間帯だったと思っています。
◆人的交流を肌で実感
1970年、初代関釜フェリーに出会えた時、その大きさに目を見張りました。それまでは500トンから600トンクラスの貨客船でしたから、桁違いの大きさだったのです。
さらに、乗用車で韓国に行く時代になった事に感動もしました。フェリーの中を見学して回り、大浴場があるという事でも感動し、たとえ3等船室の大部屋であっても船旅を満喫できました。
在日同胞にとっては差別の厳しい時代で、韓国でも厳しかった時代でした。
しかし、着実に経済成長をしていく韓国の息吹と韓日間の人的物的交流が拡大している事を肌で実感できる場でもありました。
◆逞しいアジュンマ
そして、なによりも韓国人のバイタリティ、特にご婦人方の優しくもたくましい生命力に驚きと同時に感動したことを覚えています。
思えば、はじめて玄界灘を渡ったのは1965年、東京韓国学校高校3年生の母国修学旅行でした。
民族差別の大変厳しい時代で、劣等感に苛まされている時代でしたので、釜山に到着したとき感動と歓喜の涙があふれ、山並みと家々が曇った事を鮮明に覚えています。
大きな揺れを体験しましたが、翌朝、「みんな、韓国だぞ」という一声で、デッキに駆け上がり、感動で胸が一杯になったことを昨日の事の様に思い出します。
◆聖地を訪ねる気分
今思えば、聖地を尋ねる巡礼者と同じ心情でしょうか。この「初めての母国の思い」は、今の次世代たちにとっても、同じく覚える感情なのかも知れません。ハラボジ、ハルモニ、父母が「渡ってきた径路」であり、将来にわたって在日の次世代たちも「越えて行く径路」なのだと思っています。
鄭夢周 横須賀生まれの在日2世で73歳。東京韓国学校を経て母国修学。1977年の青年会中央本部結成にも尽力し副会長、会長を歴任。民団中央本部で文教局長、組織局長、事務総長、企画調整室長などを歴任。朝鮮奨学会の代表理事を務めた後、現在は民団中央本部副団長に。
(2020.08.15 民団新聞 )