掲載日 : [23-09-08] 照会数 : 3137
関東大震災100年 在日韓人歴史資料館がシンポジウム開催
関東大震災から100年を迎え、民団中央本部が運営する在日韓人歴史資料館(李成市館長、韓国中央会館別館内)は2日、東京・港区の韓国中央会館でシンポジウムを開いた。テーマは「何が市民を虐殺に駆り立てたのか」。会場には120人以上が参加した。
李館長は開催に至った理由について「2010年以降、虐殺はなかったとする歴史修正主義的な動きが横浜市と東京の議会で明らかになり、その後も放置されていることに危機感を覚えた」と明らかにした。
具体的には横浜市で12年、中学生向け社会科副読本が関東大震災の記述で「虐殺」という用語を使ったことが市議会から批判され、回収された。東京では都立横網町公園の追悼碑に刻まれた犠牲者6000人余りが「政治的主張」だとして都議会で問題となった。
開会にあたって李館長は「どうしたらお互い信頼関係を取り戻せるのか。決して歴史修正主義を糾弾するのが目的ではない」と断りを入れた。
テーマ講演では元朝日新聞記者で現在は作家の渡辺延志さんが「人々はなぜ虐殺に走ったのか」と題して聴衆に「新しい視点」を提供した。
従来の見解は作家の吉村昭さんが73年に唱えた「精神異常説」だ。滋賀県立大学の姜徳相名誉教授(在日韓人歴史資料館前館長)は75年、民衆の自発的意志を煽動したのは様々な流言であり、はなはだしくは武器の貸与があり、積極的な殺人を指示または容認にしているとして民衆と国家の責任を指摘した。
一方、渡辺さんは東学農民戦争(1894・95年)の記録に言及した井上勝生北海道大学名誉教授の論文(18年)に着目した。東学農民戦争に続く義兵闘争(1907~11年)や韓国併合後の3・1運動(1919年)、その後のシベリア出兵(1918~22年)を通じて「不逞鮮人」「朝鮮人パルチザン」を追うことが当時の日本軍にとっては日常活動になっていた。渡辺さんは「武装した朝鮮人が集団で襲ってくる」との流言の裏には、自警団の脳裏に焼き付いた「不逞鮮人」「朝鮮人パルチザン」という負の記憶があると指摘した。
もう一つのテーマ講演は「震災作文が伝える関東大震災」。横浜市内の小学生が震災から半年後書いた手書きの作文で、4校700人分のうち3校について元中学校社会科教員で研究者の後藤周さんが書き写した。
流言は震災当日の9月1日夕方に始まったようだ。その骨格は「朝鮮人が襲ってくる」というもの。当時は武器を手に取り、朝鮮人を殺害しても差し支えないという空気が一般的だった。作文は迫害・虐殺の具体的な状況を伝えている。
後藤さんを驚かせたのは、子どもたちが何の疑問もなく流言を受け入れていたこと。
デマや「恐ろしい朝鮮人像」は子どもたちの脳裏にしっかり刷り込まれていったようだ。後藤さんは「先生たちに自覚や反省はなかったのか。震災作文は流言と真実を隠し続けた震災後の過ちも伝えている」と強調した。
報告は事情があって後藤さんに代わり渡邊さんが行った。
講演の後、李圭洙全北大学校学術研究教授、戸邊秀明東京経済大学教授韓国独立紀念館の裵姈美研究委員を迎え、総合討論を行った。