Home > ニュース > フラッシュ同胞企業人 |
| 1932年慶尚南道南海生まれ。南海高校卒業後、51年に来日。日本大学工学部機械科中退。60年に興和製作所(東京)を設立。東京板橋支部常任顧問。1女。 | ホンダの部品メーカー 興和製作所の鄭漢晟社長
クルマやバイクで世界的に名高い「ホンダ」。40年近くにわたり、その協力工場としてエンジン関係の部品などを納めてきた。最近はオートバイレースやF1用のエンジン部品を開発するなど、特殊な部品を中心に製作する。
「本田技術研究所の試作に関わっている協力会社だけでも100社を超すが、その中で特殊な部品を製作できるのは一部だけ。当社でしか作れない部品もある」
社員は約30人。「会社の規模は小さいが、技術だけは世界のどこにも負けない。他社ができないものを引き受けるのが信条だ」と胸を張る。
昨年のことだ。世界で数社しか作れない4輪車の部品について注文の依頼があった。外国社に発注すれば半年以上はかかる。それを早急に作ってほしいというのだ。
果敢な開拓精神
「全員が一丸となって取り組んだ結果、わずか2カ月間で、しかも外国製より精度の良い部品を作ることができた」。それが評価され、この4月、ホンダから「チャレンジ賞」を受賞した。
協力会社には数百人規模の企業も少なくなく、優れた人材と機械を有している。「どんなにいい機械があっても、結局、モノを作るのは人間。コンピューターはあくまでも道具にすぎず、どう操作するかにかかっている。試作品を作るには、皆がチャレンジ精神を発揮しなければならない」と強調する。
韓国戦争中の51年に来日。働きながら日大工学部機械科に通った。知人の自動車部品会社に勤務後、裸一貫で会社を興した。資金も機械もないなかで、太平洋戦争中に焼けたスクラップを拾い集めながらの仕事だった。
転機となったのは61年。日大の同級生で本田技研工業に勤務する友人を通じて、協力工場としての取引が始まった。「学友には今も感謝している」
エンジン関係の部品を作るといっても、当初は機械があるわけでなく、鉄の材料を自分で磨いた。「車を買うカネもなかったので、数十キロもある加工品を肩に担いで運んだ。今思えば、大変な作業だった」。
約束は絶対順守
納期に間に合わせるための苦労は、昔も今も変わらない。「人間のやることだから思わぬミスをすることもあるが、納期は絶対順守する」。休日の返上はもちろん、夜も寝ずに仕事をしなければならない。「日本人でないから、なおさら約束は守った」。長年にわたって築き上げた信頼関係は、ずしりと重い。
「他社ができない仕事を任せられるのは、大変名誉なことだ。試作品を完成したときの喜びは、何にも代え難い。人生の生きがいと言えるかもしれない」
若いころ、仕事が思うようにできず、そのため学業半ばに挫折した苦い体験がある。だから「苦学生には支援したい」。その強い思いから、89年に韓国で財団法人ハンソン奨学会を設立、毎年、優秀な学生に奨学金を出している。
今も、毎朝8時に出勤する。「中小企業は社長自らが率先してやらねばならない」。好きな言葉は「至誠通天」。「誠心誠意を尽くせば天にも通ずる、という姿勢が大切だ」。
(2007.7.18 民団新聞) |
|
|
|