地方本部 HP 記事検索
特集 | 社会・地域 | 同胞生活 | 本国関係 | スポーツ | 韓国エンタメ | 文化・芸能 | 生活相談Q&A | 本部・支部
Home > ニュース > 特集
古代の歴史が教えてくれる…韓日揺るぎないお付き合い

遺跡から読み解く宮田太郎さん

 「日本国と朝鮮半島の歴史」というと、日本国内が戦乱で明け暮れた戦国時代末期から太平洋戦争時代の出来事が何かとクローズアップされがちだが、長い人類の歴史を考えれば、それはわずか400年間の出来事にすぎない。

 朝鮮半島と島国・日本の交流の原点を考えるならば、それは海の道・陸の道を介して7〜8千年以上の壮大な歴史背景があった。

 果たして古代においては双方はどんな深い関わりを持ってきたのか。数多くの研究者が遺跡データや歴史資料を基に分析し、想像を超えた親交があったことに感嘆の想いをずっと抱いて来たことを、もっとわかりやすく双方の国民に知らせることができれば、何かが変わっていくのかもしれない。

 日本人と朝鮮半島人のDNAの深いつながりが証明されている今、長い積み重ねの時代を経た価値や、親交と友好、融合の事実があったことをもっと実感できたら素晴らしい時代が切り開かれるのではないだろうか。

■□
済州島の創世神話
海の道から花嫁が…国際結婚の証?観光名所に

 日本から朝鮮半島へ向かう古代以来の海上交通路には、北九州から壱岐・対馬を経て釜山や金海につながるルートの他に、西回りの「済州島」を経て木浦から入り、光州に至る黄海寄りの航路も長い間使われてきた。

 近年、韓国の南端エリアの栄山江流域に日本独自の形式であった前方後円墳が13基(5世紀末〜6世紀前半)見つかっているが、北九州や熊本地方の装飾古墳文化エリアの古墳の出土品と極めて似ていることから、百済あるいは在地勢力と九州勢力との関わりが指摘されている。

命がけの航海背景には友好

 どちらの勢力が優位だったかという論議がよく見られるが、熊本の江田船山古墳出土の百済系装身具や、光州の月桂洞古墳から出土した倭系の埴輪などが意味するように、当然のことながら命がけで海峡を渡った双方の人たちが相互に他国に印を遺すには、友好関係なくしては成しえない背景があったはずである。

 また、日本からの観光客も多い「済州島」は韓国内でも人気のハネムーン観光地として、韓国のタレントや映画スターの利用も多い島である。古代の日本国への献上品の中に「耽羅(済州島)アワビ」があったことや、飛鳥の斉明天皇の元にも661年(斉明天皇7年)に耽羅国から使者・阿波伎が朝貢に来たという記事(日本書紀)も見られる。また時代は下るが、日本では素潜りのプロである海女の中に、この島の海女との縁がある人が何人もいる関係も知られている。しかし、この島が、古代において日本国と韓国の間で国際結婚が行われたという物語の場所であることはあまり知られていない。

 済州島の観光の目玉の一つが創世神話に基づく伝説地巡りであるが、古代にこの島の開拓の祖となった三人の若い男性=高、梁、夫が狩りをしていると、日本国(高麗史に記載あり)または碧浪国(瀛州誌に記載あり)からやってきた箱舟に載った三人の若き女性と使者が浜に来着し、使者曰く、この島の三人の神様が独身なので、結婚を申し出るべく国王が自分の娘たちを差し出したと話すことに始まる。

 三人の始祖神が島で生まれた三姓穴や、結婚した後に弓を放ってそれぞれの住まいを決めた三射石、新婚の住まい、結婚に際して沐浴した婚姻池などが観光名所になっている。

 また中国の秦始皇帝時代に、皇帝の命令で不老不死の妙薬を採りに大海に船団を繰り出した徐福らの大船団が、朝鮮半島沖を経て日本にやってきた際の航路もまた済州島経由であった(西帰浦に伝説が遺り、徐福記念館がある)。

 九州や熊野市の波多須、新宮市内、関東の富士吉田なども徐福伝説が遺る場所だが、済州島から日本の飛鳥や奈良へ、また太平洋沿岸にまで続くルートこそ、韓国と日本が親交を深めてきた海の道に違いないのである。

済州島の三神人の始祖誕生神話の地「三姓穴」。切り込み写真は日本国からやって来た三女神を記載した「高麗史」

■□
高麗若光の通った道
ロマン今も膨らむ…大磯上陸の痕跡は色濃く

 埼玉県の日高市では、古代の奈良時代初め(霊亀二年=716年)に東国のうち7カ国から1799人の高麗人たちを一箇所に集めて「高麗郡」を建郡したとある「続日本紀」の記述を基に、来たる2016年に、建郡1300年祭を実施する予定だ。高麗郡は明治29年に入間郡に編入されるまで埼玉県に存在し、市内の高麗神社は現在、高麗宗家第60代の宮司が継ぎ、様々な日韓友好の催しを行っておられる。また隣接する聖天院勝楽寺には高麗神社の御祭神である高麗若光(若光は韓国語読みではヤックァン)の墓といわれる廟も存在している。

 高麗若光らは、668年に唐国と新羅国の連合軍によって滅ぼされた高句麗国から滅亡数年前に脱出した亡命者とされるが、おそらく飛鳥の朝廷の計らいで、主体である一団は大阪湾あるいは伊勢湾から船出して関東に上陸した可能性が考えられるだろう。

 それは当時急増した渡来の人々を核とした地方行政モデルを創るためとも、また唐国の襲来に備えるため、関東から九州防備に向かった防人たちの故郷の関東平野一帯に軍事兵站の拠点を設け、鉱物収集(秩父の和銅採掘にも貢献)や武具製造のために活躍したものとも想像される。

 「日本書紀」天智天皇5年(666年)5月の記事に、「二位玄武若光」の名で出てくる者が、この亡命者たちを統括した若きリーダー(当時は17歳くらいか)高麗若光と同一人物かは不明であるが、時期は確かに重なっている(666〜667年頃に大磯へ到達か)。

 ある一団は長野方面から関東平野部に入った可能性もあるが、一般的には神奈川県の大磯海岸の祭りで歌われる木遣り唄の内容がその上陸の記憶が根幹にあるとみられることや、大磯海岸に高麗という地名が今も遺り、また現在の高来神社の前身も、明治時代以前は鎌倉幕府の「吾妻鏡」にも記載されている「高麗寺」や「高麗権現社」だったこと、後に郷名の高来に変更したこと、朝鮮式の影響を強く受けた須恵器や横穴古墳、遺跡が付近に多く存在することなどから、亡命船団の大磯上陸説は今も根強い。

直系の子孫は数百人に増え

 さらにはそれから約半世紀後に国の命令で現在の埼玉県の日高市にある高麗川の曲折地「巾着田」付近に強制的に移住させられて高麗郡ができるが、若光は白鬚を生やした老人になるまで高麗郡で長生きし、直系の子孫も数百人に増え、やがて没するとその古墳は「城外に埋め」て築かれたという。

 昭和30年代の航空写真には高麗川に面したある小高い丘の不思議な白い盛り上がりが写っており、そこに集まる数条の道が示す特別な地そのものが本来の墳墓ではないか、また同じく写真にうっすらと写った建物の柱列痕から、初期高麗郡はやはり巾着田の北側の高麗本郷や九万八千神社付近ではなかったかと、個人的にはそのロマンに想いを馳せている。

大磯「高麗山」山頂の高来神社上社跡。(かつて高麗権現=高麗若光を祀っていた地)

■□
北を基軸にマチ造り
拡散続けた居住地…測量技術で適地を探して

 大磯の高麗山の山頂にも祭られていた高麗若光が、上陸から半世紀後の716年に日高市に移住した際の道は、大変不思議なことにほとんど正方位の真北に向かっている。

 当地方の若光関連のある神社には若光が占地を行っていた伝説があるように、「北を卜して(測量して)」、移住に適した地を探し、遂に巾着田付近に決定し移住した可能性があると考えたい。

 このほとんど南北方向に引かれた線をあえて「高麗若光ライン」と命名し、探求していく調査作業の中で、その線上に面白いほどに並んだ重要な神社やその施設、測量に適した丘、遺跡や終末期古墳群などの分布する不思議を1990年頃より歴史ウォークやツアーでも紹介してきた。

 「北を基軸に据えて、マチや公的施設を創る」考え方は、飛鳥の高松山古墳やキトラ古墳の被葬者たちのグループが持っていた古代の測量法技術や朝廷での渡来系測量師たちと実に深い関係があるとみられる。そもそもキトラの名は北・浦(占)地名に由来し、武蔵国府周辺にも、この地名が広く分布しているのも事実だ(三鷹、国領、川崎市多摩区など)。

古代の手工業センター跡が

 また、武蔵国府の国衙跡が、都城と同様に正方位で設計されていることや、東西南北の設計軸の溝や道路跡が検出されていること、真北に日光男体山が存在(北辰に位置する不思議。関東平野の中心である武蔵国衙政庁の設計上の中軸線=真北=玄武にあたる山として、多摩地方からも際立ってよく見える目印)、武蔵国総社・大國魂神社や青梅御嶽神社も、元は飛鳥の天香久山に存在する卜占と測量の神が深い縁故を持って祭られてきた事実が見え隠れしている。

 その線上に位置する相模原台地の奥座敷、相模原市の橋本〜城山エリアは、一時期の高座郡衙が存在(茅ヶ崎で発見された高座郡衙と並立、あるいは時期変遷)した可能性が考えられる興味深いエリアである。

 ここにも高麗若光一行が居住区を拡散して広がっていったであろう時期に該当する大宝3年(703年)に、「高麗王」の称号を若光は朝廷から授かっており、付近には古代官衙的な遺跡や、吉見百穴と同様の古墳時代終末期の春林横穴古墳群が、また平安時代に続く時代の遺跡群として、広範囲な土器や屋根瓦、木工製品や鉄製品の工房が数多く発見されており、「古代の手工業センター」があったと考えられ始めているのである。

 これまで見えていたが見失ってしまったもの、あるいは目の前にあるのにずっと見えていなかったものが世の中にたくさんある。

 日本と韓国、朝鮮半島の深い友好関係構築の新たな一歩は、古代からの歴史時間に育まれつつも埋もれていた、尊く清らかな相互の関わり方の知恵を発見することから始まるのかもしれない。

高麗人たちが心の拠り処とした雌雄の龍籠山(相模原市城山町)。奥相模野の古い神社の長い参道は、すべてこの山に向かって造られている

■□
プロフィール

 宮田太郎 1959年東京都生まれ。古街道研究家、歴史講師歴史シアター・総合プロデューサー。総務省地域力創造アドバイザー。(株)歴史シアター・ジャパン代表取締役。歴史古街道団・団長。日本フットパス協会理事。

 国内や近隣国の海の道・陸の道を研究。遺跡としての古道・古街道を歴史考古学の視点でとらえ、どこにでもある昔の事象や歴史遺産を、現代生活に活かす方法の構築に日々奔走している。発見した新たな歴史の証をオリジナルの旅・ウォーク(約4千回)として実施。

(2015.1.1 民団新聞)
 

最も多く読まれているニュース
差別禁止条例制定をめざす…在日...
 在日韓国人法曹フォーラム(李宇海会長)は7日、都内のホテルで第6回定時会員総会を開いた。会員21人の出席で成立。17年度の報告があ...
偏見と蔑視に抗って…高麗博物館...
 韓日交流史をテーマとする高麗博物館(東京・新宿区大久保)で企画展「在日韓国・朝鮮人の戦後」が始まった。厳しい偏見と蔑視に負けず、今...
韓商連統合2年、安定軌道に…新...
金光一氏は名誉会長に 一般社団法人在日韓国商工会議所(金光一会長)の第56期定期総会が13日、都内で開かれた。定数156人全員(委任...
その他の特集ニュース
21地方本部団長決まる…1...
神奈川・李順載氏 大阪は呉龍浩氏 民団の地方大会・委員会・総会が3月26日までに48地方本部のうち44本部で終了した。任期改選は...
<平昌パラ五輪>アイスホッ...
映画「私たちはソリに乗る」選手たちが「鑑賞」をアピール 平昌冬季パラリンピックの期間中、韓国情報の発信や選手支援の拠点として運営...
<平昌パラ五輪>脱北者の韓...
アイスホッケーの崔グァンヒョク選手アイス売り、列車転落、片足切断…悲惨な北韓逃れ夢果たす 平昌冬季パラリンピックに...

MINDAN All Rights Reserved.