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<寄稿>武蔵国に根をおろし高麗郡建郡1300年…高麗文康
その意義と課題
 
高麗神社正面の大鳥居
民団が2005年10月に寄贈した石造りの長丞(チャンスン)。韓国で制作された
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続日本紀に記述…「高麗人1799人遷す」
 
 霊亀2年(716年)5月武蔵国に高麗郡が置かれた。『続日本紀』は「駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国」の「高麗人1799人」を遷したと記す。高麗郡が置かれたのは入間郡の閑地であったと考えられている。つまり未開地に高麗郡が置かれ、1799人の高麗人が遷り住んだということである。
 
 高麗人らの前住地7国には甲斐国に巨麻郡、相模国に高麗神社(現高来神社)・高麗寺など高麗人とのかかわりを伺わせる場所が散在する。『日本書紀』には高麗郡建郡をさかのぼること30年前の686年、「常陸国」に「高麗人56人」を遷す記事が載る。高麗郡を構成する2郷は高麗郷と上総郷であるが、その名称から上総郷には上総国から多くの高麗人が遷ったと考えられている。
 
 武蔵国高麗郡に遷り住むまで東国七国に定住していた高麗人は、どのようにしてこうした地域に住むようになったのだろうか。
 
 彼ら高麗人の故国高句麗は、5世紀には「高麗」を自称した。10世紀に至り朝鮮半島の覇権を握った「高麗」は新羅の力が衰える中、その領域内に生まれた勢力が「後高句麗」を名乗ったことに由来する。この時「後百済」も現れ、半島は三国時代再来の様相を呈していた。いずれにしても668年高句麗が滅ぼされた時、日本は高句麗を「高麗」と認識していたのである。
 
 時代はさかのぼる。640年代、東北アジアは激動期に入った。617年隋の衰滅により唐が起こったものの、しばらくその動向は静かであった。唐内部が充実した頃、再び鳴動が起こった。
 
 唐の力が脅威になる中で、高句麗、百済、新羅、日本は唐に対する態度をめぐり右往左往した。641年百済では義慈王が即位し王権を強化、対唐強硬の道を選んだ。642年高句麗では淵蓋蘇文が政変を起こし、栄留王を殺害したうえ宝蔵王を立てて自ら権力を握った。
 
 高句麗は以後、唐に対して強硬な態度をとることになった。新羅はこの時、金春秋が高句麗を訪ね外交的協調を呼びかけるが失敗、唐へと走って遂に盟約を結んだ。新羅はこれと前後して善徳女王に反旗をひるがえした 曇の乱を乗り越えている。
 
 日本では645年乙巳の変が起こり、蘇我本宗家が中大兄皇子、中臣鎌足らによって滅亡に追い込まれた。東北アジアの国々に起こった様々な変革と乙巳の変の関係性は今後の研究に由るが、これにより王権が強化された。
 
 朝鮮半島を静観していた唐は高句麗の政変を大義に侵攻を開始したが、高句麗の戸口すら開くことができなかった。侵攻にてこずる最中、新羅から金春秋が派遣されたのである。共に高句麗に苦しむ事情が盟約に結びついた。
 
 一方、唐に対抗する高句麗と伽耶地方の利権をめぐって新羅と対立する百済は、「敵の敵は味方」の論理により結びつきが強固になった。東北アジアは唐・新羅対高句麗・百済という図式に落ち着き、20年余り戦乱が続いた。日本は長い百済との関係があり、後に百済復興戦に深く関わることになった。
 
高麗神社外拝殿で参拝する人たち
神楽殿には馬射戲用の伝統衣装が飾られている
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故国滅び定住選ぶ…高句麗からの外交使節ら
 
 高句麗は666年に二度、668年に一度日本に使節を派遣した。660年の百済滅亡、665年の淵蓋蘇文の死去と内部対立を受けての外交団であった。666年10月の使節団に「二位玄武若光」なる人物がいた。後の従五位下高麗王若光であろう。使節団は百済との縁故により百済復興を推進した大和王権の力を頼んだが、唐との闘いに疲弊した日本に高句麗救援の力は残っていなかった。高句麗使節団は、故国滅亡の報を日本で耳にすることになった。
 
 日本に定着した高麗人たちの中には、朝廷に官人として仕える者たちもいた。後の高麗王若光もその一人であった。高麗人たちの中には都を離れ東国に定住する者たちも多かった。高麗郡の建郡が武蔵国であったのも、高麗人の東国移住と無縁ではないだろう。彼らは東国に村を起こし、あるいは先住民と共に暮らしていたに違いない。一体いつごろからそのように暮らしていたのか、記録には表れない。恐らく、各地で彼らの進んだ知識や技術を欲していたのだ。記録に残すほどのいさかいもなく、共生していたからこその不明であろう。
 
 『続日本紀』にある高麗郡建郡の記事は、実に唐突にあらわれる。しかし、それまで関東各地で村を築き暮らしていた高麗人の歩みは、既に日本の発展に十分な功績を重ねていた。大和朝廷が彼らに寄せた信頼感こそ、高麗郡建郡の原動力ではなかったか。更に想像をたくましくすれば、大和朝廷の中で一定の官位を得ていた高麗王若光と東国各地の高麗人の間に共通の夢があったのではないか。
 
 後に大和朝廷で従三位となる高倉(肖奈)福信は、『続日本紀』の薨卒伝に高麗郡の出身と記されている。高麗郡建郡より前の709年に生まれた福信は、祖父福徳が高句麗から渡来してきており、早く武蔵国に居住していたとも考えられる。後に三度武蔵国司を務めた福信の経歴を考えると、福信に至る血脈の背景に数代にわたる武蔵国との強い絆があったように感じる。入間郡の閑地に高麗郡が置かれたことも肖奈氏の影響力に起因するものだろうか。
 
 こうして故国滅亡から48年後、高麗郡が建郡され武蔵国の閑地が拓かれた。初代郡長高麗王若光は卒後、遺徳をしのぶ郡民により高麗明神として祀られた。
 
 現在の埼玉県日高市・飯能市一帯は今から1300年前に高麗郡が置かれ、高麗人1799人が遷住し開拓した土地である。1896年高麗郡は廃止され、1955年高麗村・高麗川村の合併により日高町が生まれたことにより行政区域名から「高麗」の名は消えてしまった。
 
日高市が作成したポスター
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「東国七国」とも記念事業
歴史に学び歴史を生かす…先人への敬意育んで
 
 高麗郡廃止から100年が経った1996年高麗神社例祭直会の席上、当時の宮司で筆者の父である高麗澄雄は突然こんなことを言い始めた。「20年後は、高麗郡建郡1300年である。私はこの佳節を盛大にお祝いしたい」
 
 居並ぶ人々はおろか、私もその言葉に即座に反応できなかった。それでも2002年から、今は無き高麗郡を人々に「思い出していただくため」神社独自のイベントを始めた。来場者の中には、聞きなれない「高麗郡」の名に質問を寄せてくる方や、「今年が建郡1300年か?」という質問があった。「14年後です」と答えると拍子抜けしたように苦笑する人もいたが、年々理解は深まっていった。
 
 2011年に発表された「第五次日高市総合計画」の前期基本計画戦略プロジェクトに「高麗郡建郡1300年プロジェクト」が載った。「日高市」は「高麗郡」とかかわりがない、とも言えるだろう。すでに存在しない行政区域名をあえて現在の街づくりに生かしてゆこうというのは英断である。
 
 2013年民間の有志が集まって「高麗郡建郡1300年記念事業委員会」が組織された。この委員会は2015年4月に「一般社団法人高麗1300」に発展した。行政は2014年に日高市長を委員長とする「高麗郡建郡1300年日高市実行委員会」を組織し、民間と行政の両輪で佳節を迎える準備が整いつつある。
 
 かつて、父が口にしたことが紆余曲折を経て行政を動かすところにまでなったのである。2006年に他界した父も少し安心しただろう。
 
 高麗郡建郡1300年への動きは加速している。日高市は若光ら高麗人の上陸伝説を伝える神奈川県大磯町との交流を促進した。更に日高市観光協会は高麗郡建郡前、高麗人が居住していた東国七国に呼びかけ、観光イベントへの出展を誘致し多くの自治体が参加している。
 
 昨年11月大韓民国京畿道の南景弼知事が日高市を訪れ、高麗郡建郡1300年の催しである「第4回高麗王杯馬射戲〜MSAHI〜」への参加や日高市の人々との交流を行った。今年は京畿道や、日高市の友好都市烏山市、市内に高句麗遺跡を持つ九里市などが高麗郡建郡1300年への参加を表明している。
 
 2016年はまさに「高麗郡建郡1300年」である。高麗郡建郡1300年日高市実行委員会、一般社団法人高麗1300、高麗神社は時に共同で、時に独自に催しを開催する。
 
 特に5月21日には日高市が式典を開催し、翌22日には日高市、高麗1300共催で「虹のパレード」が開催される。これは高麗人1799人に見立てた市民ほかの一般参加者による「高句麗衣装」を身にまとったパレードだ。1500人を超えるパレードは全国でも珍しいものだ。実現すれば壮観なものになるであろう。
 
 高麗神社では、5月21日午後7時から「開運ミュージカル つむぐこまひと」の上演を予定している。これは筆者の愚著『陽光の剣 高麗王若光物語』を原作として、プロのライターが新たに脚本を書き下ろしたものである。
 
 このほか、高麗郡建郡1300年の応援大使として漫画家の里中満智子氏にご就任いただき華を添えていただくほか、歴史シンポジウム、歴史講演会、漫画の出版なども計画されている。
 
 歴史を土台にした地域づくりをコンセプトに交流は進みつつある。しかし、一方で肝心の歴史への理解は十分に進んでいるとは言えない。日高市はもちろん、その周辺住民への周知は喫緊の課題である。
 
 更に将来を見据え、子供たちへの教育に「高麗郡」の歴史を取り入れることは不可欠だ。この点は既に小学生が地域について学ぶ副読本に取り入れられ学習が始まっている。子供たちが総合学習の時間に神社を訪れ、高麗郡に関して学習する機会も増えた。どうか素直な感性で先人への尊敬の念を培ってほしい。
 
 高麗人たちが築き上げた歴史の力によって人々の関心は高まった。それをどう街づくりに生かすか、1300年前の高麗人からの宿題であろう。
 
(2016.1.1 民団新聞)
 
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