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再会渇望、待ったなし…KBS「離散家族捜し」から30年
汝矣島広場に設けられた「出会いの広場」は離散家族の消息を訪ねる張り紙であふれた(1983年当時)
KBSのスタジオで涙を流しながら肉親との再会を喜ぶ離散家族(1983年)
総連同胞に参加を呼びかける母国訪問団のポスター(1975年)

当時1万世帯の願い叶う…大反響で138日間生放送

 1950年に北韓の南侵で勃発した6・25韓国戦争。3年余り続いたこの戦争で、同胞だけでも数百万人が死亡、国土の荒廃化に加えて南北分断を固定化させ、双方合わせて1000万人もの離散家族を生んだ。その数国民の4人に1人の割合となる。

 韓国民にとって「離散家族再会」は「統一実現」に劣らぬ渇望だ。

 韓国ドラマの多くに生き別れになった肉親との奇跡的な再会シーンが登場するのも、視聴者(国民)の多くが「離散家族再会」に高い関心を示しているからと言えよう。

 今から30年前の6月。全国民が涙を流しながら夜を過ごしたテレビ番組があった。

 83年6月30日。KBS(韓国放送公社)が韓国戦争33周年特別生放送企画で、韓国戦争で離ればなれになった家族をテレビを通じて捜し出す生放送「離散家族を捜します」を実施した。

 80年代初旬、韓国は今のようにSNSやインターネットはおろか、電話普及率も低く、情報伝達がままならなかった。そこで、公営メディアを活用し、国内で生き別れになった離散家族を捜そうと企画された。

 人気女性歌手、パティ・キムの「どなたか、この人を知りませんか?」のテーマ曲が流れた後、150人の離散家族をスタジオに招いて夜10時15分に放送がスタート。その瞬間、放送局の電話は鳴りっぱなしとなった。さらに、11時過ぎまでに汝矣島のKBSスタジオに1000人以上の離散家族が押し寄せた。

 生き別れた家族との再会をこの放送に希望を託しながら、汝矣島へと向かって来たのだ。

 情報の疎通が不足していたこの時代、離散家族にとっては、「干天の慈雨」の知らせだった。

 本来、企画は90分程度を予定していたが、予測以上の反響に深夜3時過ぎまで、緊急延長した。

 ところが翌日、多くの離散家族が生き別れになった肉親の写真などを手に放送局を訪れ、長蛇の列を作っていた。さらに番組出演希望者や問い合わせの電話殺到で放送局の業務が麻痺した。このためKBSはニュース以外の予定プログラムを取り止め、「離散家族捜し」の生放送を続けた。

 ついには、当初の計画を変え連続番組として再編し、11月14日まで138日間にわたって放送を続けることになった。453時間45分間にわたる、このプログラムは同一タイトル世界最長連続生放送としてギネスブックに登録され、現在も破られていない。ピーク時の視聴率はなんと80%近くまで記録した。

 また、放送技術の卓越していたソウルのKBS本社だけでなく、全国放送局をSNG(通信衛星による放送番組収集システム)で連結し、ライブ放送する技法もこれを期に活性化した。

 放送期間中、約5万人の離散家族が汝矣島に集まり、放送局には10万件余りの「人捜し」が受け付けられた。そのうちの1万187世帯が生き別れになった家族を劇的に捜し出した。

 この生放送を終えた後も、汝矣島広場に設けられた「出会いの広場」は翌年夏まで維持された。

 この放送当時デビューした歌手のソル・ウンドは「懐かしい私の父」のタイトルと歌詞を変えて「失われた30年」としてカバー。直ちに大ブレイク、最短期間ヒット曲としてギネスブックに登録されたことは有名だ。

 放送中、涙の再会をはじめ、さまざまな切ない光景が繰り広げられたが、中でも数万枚の家族を捜すチラシや横断幕が所狭しと貼られたKBS社屋の姿は、韓国人の胸に、祖国分断の悲劇を呼び覚ます強烈なイメージとして残された。

 KBSの番組に参加した離散家族は、故郷が北であれ南であれ、南で暮らしながら生き別れ、消息が途絶えた人たちだ。

 これとは異なり、戦争前後に北に家族を残し越南した離散家族は、初めから家族を捜すことさえできなかった。北韓とは休戦ラインに阻まれ、往来ができなかったからである。しかし、KBSの番組から2年後、南北離散家族の限定的な再会が初めて実現した。

 88年以降、北に残っている離散家族との対面を申請した数は、約13万人。このうち約2万人が南北離散家族対面の場を通し、家族に会うことができた。しかし、既に5万5千余人の申請者は、この世を去っている。

 それは、生き別れたのが60年以上前いうこともあり、再会渇望者のほとんどが80〜90代の高齢者だったからだ。

■□
総連同胞 5万人が故郷訪問
民団の主催で75年4月から

 本国での離散家族再会よりはるか前に、生き別れの肉親と再会する事業があった。1975年4月から開始した総連同胞を対象に民団が主催した母国訪問団事業だ。

 当時、在日同胞は約60万人。うち、約25万人が総連に加盟し、ほとんどは故郷が南側だ。「南は地獄、北は地上の楽園」と北韓の虚偽宣伝にだまされ続けてきた。

 民団は人道的レベルで、「故郷の土を踏み肉親と再会を」と総連同胞に呼びかけた。この試みが大反響を呼び、全国で参加希望者が殺到、ピーク時には年間5000人を超す総連同胞が故郷の地を訪れ、数十年ぶりに肉親と再会した。その数は05年までに約5万人に上る。この在日同胞版の「劇的な離散家族再会」は韓国国内でも感動を与え、毎回、大きく報道された。

■□
離散家族再会に関する動き

45年8/15  祖国光復
46年5/23  38度線無断越境が禁止される
48年8/15  大韓民国政府樹立
48年9/9   北韓政府樹立
50年6/25  韓国戦争勃発
53年7/27  韓国戦争休戦
71年8/12  大韓赤十字社、北側に離散家族捜し提案
72年7/4   南北共同声明発表
72年8/29  離散家族問題で南北赤十字会談始まる
73年8/28  北韓、南北赤十字会談の中断を発表
75年4/14  民団が朝総連同胞の母国訪問団開始
83年6/30  KBSが「離散家族を捜します」特別番組開始。以降11/14まで
85年5/27  南北赤十字会談が12年ぶりに再開
85年9/20  初の南北離散家族相互訪問実現
86年1/20  北側が再び南北赤十字会談の中断発表
00年6/15  南北首脳会談で離散家族再会に合意
00年6/30  金剛山での南北赤十字会談で離散家族の相互訪問合意
00年8/15〜 第1回離散家族再会(ソウル・平壌)。以降01年2月まで3回実施
02年4/28〜 第4回離散家族再会(金剛山)。以降、離散家族再会は金剛山で実施
05年8/15  初の離散家族映像再会
06年7/19  北韓赤十字社、離散家族再会事業の中止を通告
07年2/27〜 第20回南北閣僚級会談で離散家族再会事業再開に合意
08年7月   金剛山に離散家族面会所が完成
10年10/30〜 第18回離散家族再会。以降中断
13年8/15  朴槿恵大統領が南北離散家族再会提案
13年8/23  南北赤十字、離散家族再会実施に合意

(2013.8.28 民団新聞)
 

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