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終わりなき鍛錬…伝承文化の担い手たち

 韓国伝統舞踊の世界で韓国重要無形文化財履修者(日本の名取に相当)として認められるには、血のにじむような鍛錬が求められる。韓国在住の伝授者に師事して最低でも3年の修業を積み重ね、初めて試験にチャレンジできるかどうかが決まる。在日同胞にとっては厚い壁だ。この壁を果敢に乗り越え、後進の指導にあたる4人にかつての修業時代を振り返ってもらった。

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伝統に独自性加える
神奈川 趙寿玉さん

 趙寿玉さんは伝統舞踊家でありながら、その踊りは常に進化を続けている。

 「羽衣伝説」では尺八や三味線と共演した。また、東京国立博物館庭園内の茶室での舞台「花弦草」では、主催者から茶室の回廊を約20分間歩くようにとの指示を受けた。習った踊りをそのまま習ったままに踊るだけでは、間が持たなかっただろう。伝統の継承に努めながらも、自分なりの創意工夫で発展させていき、独自の世界を創ってきたからこそできた舞台だった。

 「あえて伝統を壊そうとしているのではない。8分か10分ほどの踊りを人前で13分やろうとしたら、伝統に固執しつつも自分の世界を創らざるをえなかった」という。07年には朗読とも違う「言葉語り」、そして鼓とともに能の敷き舞台で平家物語の世界を披露した。

 韓国の南海岸統営出身で重要無形文化財「南海岸別神クッ」の保有者、鄭英晩さんの趙さんへの評価は高い。「変に技巧を凝らさず、多様な踊りを端正にこなしている。ううむ、日本にこういう人がいるのかと思った」という。

 ある人は、趙さんの踊りから「海のにおい、潮の香りがする」ともいう。これは長崎県対馬で生まれ育ち、海女をしていた母に育てられた生い立ちとも関係がありそうだ。中学1年になって下関に移り、船員や在日1世が叩くチャンゴやケンガリに日常的に接し、アジュモニの踊る姿を感動のまなざしで見てきた。このときの原体験が、いま、趙さんの舞踊世界に色濃く反映されている。

 思春期、母国に抱くイメージは暗いものばかり。いつもびくびく、理由もなく自分で自分を差別していた。趙さんは、「自分がまだ分からない状態。日本語の言霊に縛られていた」と、当時を振り返る。

 それが青年会山口本部に関わり、舞踊サークルをつくってグループ黎明の崔淑姫代表とそのお弟子さんに学び、仲間と歴史の学習会を重ねていくうちに、「心の中のスイッチ」が入った。

土俗性への愛着

 母国を嫌悪してきたことへの反動か、韓国の文化を勉強したいとの猛烈な気持ちに突き動かされ、結婚した年の81年から1年間、韓国に留学。まず、在外国民教育院で歴史や文化、言葉を学び、延世大学語学堂でハングルに磨きをかけた。さらに時間を見てはプロの舞踊公演を見て歩いたが、不思議と心を動かされるのは土俗的、土着的なものが多かったという。心の中にあったのはやはり、対馬や下関で見た1世が無心に踊る姿だった。

 帰日してからカヤグムの名手、池成子さんに師事し、韓国の音楽、リズム全般の指導を受けた。87年からは韓国重要無形文化財第27号「僧舞」、および第97号「サルプリ舞」の保有者である李梅芳さんに師事し、94年には「サルプリ舞」の履修者となった。代表作は「五方舞」と「散調舞」、「男舞」や「墨香(コムンヒャン)」。これらについては「私(わたくし)流だと思っています」と語る。

プロフィール

 1955年、対馬生まれの在日2世。91年、舞踊韓国主催新人舞踊コンクール大賞受賞。94年、重用無形文化財第97号(サルプリ舞)の履習者に。東京・新宿で韓国伝統舞踊スタジオ「趙寿玉チュムパン」主宰。横浜市在住

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負けじ魂を胸に履習
大阪 朴垠姫さん

 王室の繁栄と国の太平聖代を祈願するために舞われたといわれている韓国の重要無形文化財第92号「太平舞」には、リズムがどの韓国舞踊にも見られない独特なものがある。荘厳ながらも速くて軽快な足運び。複雑なリズムに合わせて、円を描きながら回す技巧的な足の動きは太平舞ならではの見どころといえる。

孤独な履修試験

 この難解な舞踊の履修試験に11年3月、合格した。受講者16人のうち、在日韓国人は朴さんただ1人。「プレッシャーと孤独との戦いだった」。

 3年間、1カ月に1回、日本から韓国に通って指導を受けた。韓国では「なぜ、在日が韓国に来てまで舞踊をするのか」という好奇の視線が向けられ、ストレスを感じたという。それでも、「本国人に負けたくない」という一心だった。

 舞踊はグループ黎明の崔淑姫代表の指導のもと、8歳から始めた。早くからその才能を認められたが、経済的には舞踊を学べる環境にはなかった。朴さんが6年生になって、父親が「舞踊を辞めさせます」と申し入しれると、崔代表は「月謝は要りません。その代わり助手をさせます」と言って側に置き、手伝いをさせながら学習をさせた。

 子ども心にも舞踊をやっていくには、なによりも誰にも負けない技術が必要と悟り、練習に励んだ。舞踊をしたくてもできない環境に置かれた理不尽さがそうさせたのだ。崔さんの「この子には恨(ハン)が必要」との言葉に、朴さんは将来の指導者として期待されていることを知る。

 21歳になると韓国伝統舞踏・柳会(ポドルフェ)に所属、車千代美代表のもと、研鑽を積んだ。さらに、伝統舞踊家の巨匠、宋和映さん(故人)からも直々に「僧舞」「サルプリ」など、多くの作品を学んだ。

 13日には民団宮城本部の創立65周年式典に出席。昨年に続いて仮設住宅で暮らす被災者を対象に「慰問公演」も行う。朴さんは「昨年は韓国伝統舞踊を鑑賞して涙をこぼして泣いている人がいた。心に響くものがあったのでしょう」と話す。

 母校である金剛学園の子どもたちの舞台を見ると、児童が一生懸命演技する姿に思わず涙目になってしまうという。

プロフィール

 71年、大阪市生まれの在日2世。金剛学園の小、中、高校を卒業。現在、京都国際中・高等学校舞踊講師。2001年、韓国全国舞踊全国舞踊競演大会・金賞、銅賞、2000年、2004年に韓国全国舞踊競演大会で最優秀賞(文化長官賞)

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後進指導へ苦難の道
東京 金順子さん

 今年で舞踊人生50年。円熟した芸で韓国伝統文化の紹介と普及、韓日親善のための文化交流などに取り組んでいる。

 韓国に留学していた姉の演奏するチャンゴ、カヤグム、そして踊る姿を見て「私にはこれしかない」と決意。人前で初めて踊ったのは18歳のとき、地元民団西東京本部主催の敬老会だった。金さんは自分に注がれるたくさんの瞳が、サルプリ舞を通して遠い故郷に注がれているのを感じた。そのときの切なさは今でも心に焼き付いている。後にボランティアで全国の老人ホームを慰問したり、第2次大戦中に犠牲となった同胞慰霊の現場で舞うようになったのも、こうした原体験があったからこそだ。

 舞踊家を志して歩み出したものの、当時は身近で指導してくれるのは留学生ぐらいしかいなかった。しかたなく、韓国から舞踊の大家が訪日したと聞くや、宿舎となっている大阪のホテルまで押しかけ、ロビーでくつろいでいるところを「ここで教えてほしい」と頼みこんだことも。

 「恥知らずの金順子」の名前は、韓国の重要無形文化財伝授者の間ではすっかり知られるところとなり、30歳代後半にはようやく念願だった韓国留学への道が開かれる。 金さんは、「恨の文化を自分の体で表現するには、韓国に身を置くしかなかった」と話す。この時、父親は余命いくばくもない病床の身だったが、死に目に会えないのを覚悟で日本を離れた。辛い決断だった。韓国での修行生活は足かけ10年余り続いた。

 師匠の住むソウル市郊外の狭いひと間に居候し、掃除、洗濯、ご飯の支度と家事すべてをこなしつつ、夜遅く帰るのを待った。つかの間の指導とはいえ、できないと次を教えてもらえないため、夜中になってから1人で必死になって練習に励んだ。

真冬の練習で汗

 当時は真冬でも汗をかくほど熱中した。修業中の身には銭湯など許されず、頭を洗おうにも水道は凍っていた。しかたなくトイレの水洗タンクを開けて氷を割り、冷たくなった水をくみ出して粗末な固形石けんで髪を洗った。「いま思えば風邪を引かなかったのが不思議なくらい」

 昼間は、チャンゴとカヤグムを背負って凍てつくソウル市内を駆けずり回り、いいものをたくさん学んだという。「キムチと同じ。いろんな体験を積み重ねないと、おいしい味は出せない」。

 この時期、大学路にある文化会館で留学中の李良枝さんと出会った。李さんはまだ芥川賞に選ばれる前のこと。やはり、カヤグムと舞踊を学んでいた。李さんは、「オンニ、在日では無理だよ。壁が厚すぎるし、きっと挫折するよ。自分はもうあきらめたの」と語った。これに対して、金さんは「私はあきらめない。とことんやってみる」と自分自身にいい聞かせていた。

 固い決意の裏には金さん自身、韓国の文化を学びたくても環境に恵まれなかった苦い体験があった。「在日の仲間が学びたいと言ったら教えてあげたい。練習したければ日本で学べるような土壌をつくってあげたかった。より深い恨の文化を指導するために、あえて苦しい道を選択した」。

 これまで指導した同胞の弟子のなかから2人が韓国重要無形文化財履修者資格を得た。さらに2人が挑戦中だ。「よくいわれる『集大成』はまだ先が見えません。これからも終わりのない継続があるのみです」

プロフィール

 1945年、宮城県生まれの在日2世。40歳で韓国重要無形文化財第92号太平舞履修者試験に合格し、太平舞保存会東京支部長に任命される。03年、韓国明知大学院社会教育学部舞踊指導科卒業。東京都東久留米市の金順子韓国伝統芸術研究院を拠点に韓国文化院、在日韓人歴史資料館セミナー室でも教えている

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師匠の愛情受け開花
大阪 張智恵さん

 大阪府立高校2年生のとき、友だちの勧めで初めて韓国舞踊を踊った。「心がすっと入り込んでいった。民族衣装に手を通してみたら、自然と涙が出てきた。感動でも懐古でもない、自分でもわからない涙が」

 89年、韓国伝統舞踊を学ぶため人間文化財、李梅芳さんの主宰する伝統舞踊保存会の門を叩き、弟子入りした。「地の果てに娘1人やるわけにはいかない」という両親の猛反対を振り切っての渡韓となった。両親は故郷が済洲道。ソウルには親戚がなく、行ったこともなかった。

 ソウルで張さんは1人だけ取り残された気分を味わう。門下生のなかには幼少時から英才教育を受けてきたプライドの高い弟子も多い。言葉もできず、踊りもまだ拙かった張さんには、「何しに来たの」という冷たい視線を全身に感じることが多かったという。

1人悶々の日も

 布団1枚敷くのがやっとという狭い下宿に帰ると、1人で悶々とした夜を過ごした。生活も切り詰めていたため、爪がはがれそうなほどの栄養不足にも見舞われた。

 それでも韓国伝統舞踊からは離れられなかった。そうしているうち、母親が体調を崩した。張さんは介護のために日本に戻り、母親の体調が回復すると韓国に行くという生活を繰り返した。

 しばらくすると、李さんから「海を越えて私の踊りを習いに来てくれた。これからは私の家で泊まりなさい」と勧められた。練習に行くと決まって温かいご飯を出してもらったこともいまでは忘れられない思い出だ。

 李さんは日本の植民地統治時代、中国の大連で過ごし、日本の学校で学んだだけに日本語が堪能。仕事といえば公演を前にした李さんの衣装のアイロンかけや掃除、後片付けなどだが、一緒に過ごすことで、舞踊の練習以外にも髪の結い方、衣装の形、舞踊音楽やリズムなど様々なことを学んだ。この経験は張さんにとっていまも「一生の宝物」となっている。

 修行してから1年後の94年、初めて韓国国立劇場の舞台に立てた。衣装は李さんが手作りしてくれた。張さんの目からは師匠への感謝の思いで熱い涙がこぼれた。98年には「サルプリ舞」の履修者認定試験を受けるよう勧められ、合格した。

 張さんは「当時は試験を受けること自体恥ずかしかったが、合否よりも2度とないこの舞台を満喫しようと、感動と感謝の思いで心を込めて踊った」。04年には「僧舞」の履修者認定も受けた。

 張さんは「いつもあきらめることなく韓国伝統舞踊を追い求めてきた結果です。踊り続けたくても、様々な環境や状況でできなかった人もいます。だからこそ、踊り続けてこられたことに感謝している。舞踊と出会ったことで韓国の伝統が愛しく思えるようになりました」と話す。

プロフィール

 在日3世。62年、大阪市生まれ。98年、重要無形文化財第97号「サルプリ舞」履修、04年重要無形文化財第27号「僧舞」履修。張智恵韓国伝統舞踊研究所代表(大阪と名古屋に教室)。00年、大阪文化祭奨励賞受賞。

(2013.1.1 民団新聞)
 

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