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| ハーフタイムに行われた引退セレモニー | | 試合後、代表を引退する洪明甫と黄善洪がイレブンらに抱えられ、スタンドのファンにあいさつした | ◆洪明甫と黄善洪−2人の英雄、美しく去る
90年代以降、韓国サッカーをけん引してきた洪明甫と黄善洪は、この日の試合を最後に代表を引退した。
韓国サッカーの発展と共に呼吸した「永遠のリベロ」洪明甫(33・浦項)と「コウノトリ」黄善洪(34・全南)が20日、この日の試合に出場、6万3000人の大観衆の前で太極マークを返却した。
洪明甫はコンディションが悪かったもののこの日の試合は先発出場し、変わらぬ世界的守備手の容貌をファンの前に見せた。
また、アキレス腱を痛めている黄善洪も後半42分に交代出場、短い時間だったが最後のAマッチを飾った。
◆似たもの同士の2人
洪明甫と黄善洪は似たもの同士。ともに小学校5年の時にサッカーを始めた。先に栄光をつかんだのは黄善洪だった。建国大2年の時、88年ソウル五輪代表に選ばれた。同年12月のアジアカップでA代表に選ばれ日本戦でデビューするやいきなり得点を決めた。
洪明甫は2年後の90年にA代表に抜てきされた。90年イタリアW杯にチーム最年少として出場、このときから黄善洪と友情を深めてきた。91年、黄善洪はプロ新人ドラフトを拒否した後、浦項に入団しドイツにサッカー留学した。
洪明甫は兵役のため軍隊のチーム、尚武を経て92年に、黄善洪が所属していた浦項に入団、デビュー初年度にいきなりMVPに輝いた。そして93年、黄善洪が留学から帰国し、2人は浦項というチームで一緒になった。
その後の行動も二人は似た歩みを見せた。97年、洪明甫がJリーグのベルマーレ平塚(現J2・湘南ベルマーレ)に進出、するとその翌年、黄善洪も日本に進出、セレッソ大阪に移籍した。
二人は2000年に柏レイソルで再びチームメイトとなったる。
昨年末、洪明甫が古巣の浦項に復帰したら、黄善洪も今年10月、かつての恩師、李會澤監督が率いる全南ドラゴンズに移籍した。
◆対照的な栄光と挫折
洪明甫は2002W杯まで韓国代表として国際Aマッチ最多出場(134回)記録を達成。黄善洪は車範根(55ゴール)に続き国際Aマッチ通算50ゴールで現役最多のゴールゲッターとなった。
だが二人が歩んできた道を振り返ると、その運命は対照的だ。
洪明甫は華麗な街道を走ったが黄善洪は多くの試練を経た。
90年1月、代表チームDF陣が立て続けに負傷したことによって代表抜擢という幸運をつかんだ洪明甫は、大きな逆境は無く、世界オールスターに4回や選ばれ、2002W杯ではブロンズボールを受賞する栄誉まで輝いた。
半面、黄善洪は92年、靭帯破裂でドイツ生活を清算、98フランスW杯では直前の中国との親善マッチで膝を負傷し、結局1試合も出場することが出来なかった。
ほぼ2年に一回の形で「悪霊」が訪れ、膝・足首・腰・肩などケガとの戦いが多かった。また、大きな大会を前後して、父、祖父、叔父らが死亡するというジンクスも続いた。
◆今後も似た形に?
二人のスターは90年以後12年間、国際Aマッチに全73回ともに出場、後に「太極戦士」たちの精神的な支柱になった。
黄善洪は2002W杯のポーランド戦で韓国の悲願である初勝利を予告する先制ゴールを決め、洪明甫はスペイン戦でベスト4の偉業を決めるするフィナーレPKを成功し国民との約束を守った。
しかし2002W杯後、彼らに試練という機会が訪れた。洪明甫は浦項の反対にも米国プロサッカー行きを貫き、来年からは新天地で英語学習と最後の選手生活を続ける。
柏レイソルに電撃解任された黄善洪は、トルコ行きを拒否した後、全南に入団したが、洪明甫と同じ米国行きを推進中だ。
英語を習得し、選手引退後の新しい人生を着実に開拓するためだ。洪明甫は国際サッカー連盟(FIFA)サッカー委員会のメンバーとしてベッケンバウアーと同じ、サッカー行政家を夢見る半面、黄善洪は名指導者をめざしている。 |
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