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孝道賞 入選作品紹介

 孝道(親孝行)をテーマにした「第2回MINDANエッセイ・コンテスト」入賞作品10点を紹介します

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駐日大使特別賞

私が思う親孝行…つらさ隠して笑顔
盧多愍(16)東京都・高1年

 親孝行と言えば、まず思う事はなんだろうか?「親にプレゼントを買ってあげる」など、ほとんどの人は、目に見えるものを言うだろう。だが、私は決してそうは思わない。本物の親孝行は実際、目に見えないものだと思う。母から教え子の話を聞いて、私が深く考えさせられたことを紹介したい。

 昔、毎日にこにこしていて笑顔を絶やさない一人の明るい生徒がいた。彼女は成績も優秀で、学級委員を務め、リーダーシップが強く、どこから見ても何の問題もなさそうに見えた。だが、実際は、普通の人より何百倍もの苦しみを抱えていたのだ。ある日、ほとんど聞こえないくらいの弱った声で、彼女の母と名乗る人から私の母に電話が来た。電話の内容は親なら誰もが持つ、わが子に対する心配だった。

 体調があまり良くなさそうなのが、電話でもわかったので、母は彼女を呼び「お母さんの体調がすごく悪そうだったけど大丈夫なの?」と尋ねた。すると彼女はこう答えたという。

 「実は母は末期の癌で、あと余命5カ月なのです」その時の彼女はいつもの明るい顔がまるで枯れた花のようで、見ていてせつなかったと言う。彼女の父は、塗装の仕事をしていたが、ひどいヘルニアにかかっていてほとんど働くこともできず、寝たきりなので、国からの支援金で生活をし、食べるだけで精一杯だった。そんな環境でも彼女は、毎日笑顔を絶やさず頑張っていたのだ。

 彼女は家事から自分の勉強まで、全部一人でこなしていた。普通の人なら絶対考えられないだろう。現代はすべてにおいて誰もが人を頼り、あげくのはてに失敗を他人に全部おしつけるような時代だ。そんな、私達が見本にしなければならないのは、彼女の「強い意志力」そして「人を思う温かい気持ち」ではないのだろうか。厳しい環境の中でも彼女は、あらゆる困難を自分の力で乗り越えた。それは大変難しい事である。だけど当時、私と同じ年齢だった彼女はそれをやってのけたのだ。

 母親があと5カ月しか生きられないのを知りながらも、悲しい顔は全く見せず、毎日笑顔を絶やさない彼女。そんな彼女の笑顔に勇気づけられた人がどれだけ多かったことだろうか。彼女の母親も、そのように自分の子が毎日明るく笑顔で接してくれる事により、何にも代えがたい、大切な幸せをもらったと思う。それでもまるで、時計が5ヶ月という限られた大切な時間を計っていたかのように、彼女の母は亡くなったという。

 親孝行−−今の人ならほとんどが、気持ちを形にしてプレゼントすることが多いのではないだろうか。だけど、それだけが親孝行ではない。母の教え子のように、目には見えないものをプレゼントすることもできる。

 目には見えないものとは、お金がたくさんあるからといって、買えるものではない。その人の心によって作られるものなのだ。

 彼女は自分の母の限られた時間のために全力を尽くした。「全力を尽くす」−−今の私達に一番必要な要素ではないのだろうか。

 何もかもすぐにあきらめ、やる気をなくし、そして後悔をするような人がいると思えば、彼女のように、母親の限られた一分一秒を少しでも楽にしてあげようと、辛い感情を抑えながら笑顔で頑張る人もいる。その後、彼女は銀行に就職したという。

 そんな彼女を見て、きっと彼女の母親は、自分の子供に感謝しただろうし、本当に何ものにも変えがたい幸せをプレゼントされたのだと思う。

 私は今回、母からこの話を聞き、両親から怒られたり、そして一緒に笑ったりするごく日常的な日々がどれだけ幸せな事であるのか気づくことができた。そして、両親からたくさんの幸せをもらった分、今度は彼女のように、私が両親に目には見えない本当の親孝行をしたい。そして、何もかも親のせいにせずに、自分で自分の行動に責任を持ち、すべての事に全力を尽くせるように頑張りたいと思う。


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学生・社会人部門賞

子どものこと…働きずめ若死にした長男
呉福徳(82)東大阪市

 私は日本へ来てすぐに結婚しました。18歳の時です。夫は25歳でした。夫は昔でいう土方をしていました。丹後にもウリナラの人がいっぱいいました。あのころはみんな貧乏でした。

 私の家でも、一番家族が多かったときは9人もいました。夫の両親や私たちの子ども、それに甥っ子まで育てていたので大家族でした。夫の働きだけで食べていくのは大変でした。子どもも家の事情がわかっているので、小学校6年生の時から新聞配りをして家を助けてくれました。家での内職を一緒にしてくれた子もいます。

 自分が学校に行ってないので、子どもたちは学校へ行かせたいと思っていました。でも家が貧しかったので。高校まで行かせることはできませんでした。右も左もわからないまま日本で生きてきて、夫が45歳で亡くなった後、子どもたちは家の事情をわかってくれて、本当に私を支えてくれました。

 いまから15年前の2月6日、長男が事故で急死しました。1月1日に46歳の誕生日を迎えたばかりでした。長距離の運転はやめた方がいいとずっと心配していたのですが、家のローンもあるし、子どもたちが学校を出るまでは頑張ると言っていて、東京からの帰り浜松で事故にあいました。即死だったそうです。

 私は子どもたちに何もしてやれなかったのに、子どもたちは親のために一生懸命頑張ってくれました。日本で苦労して人一倍の苦労をして、親のために一生懸命尽くしてくれて若死にするなんて、私の胸の痛みは死んでも取れません。


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学生・社会人部門賞

朝鮮の「二宮金次郎」…ねぎらいの言葉残して
金鳳祚(76)名古屋市

 ご多分に洩れず貧乏の子だくさん。1938年、兄は口減らしのため9歳で丁稚奉公へ。母は乳母車を曳いて、くず鉄や製糸工場などから出る布切れなどを拾い集めてお金に替え、7人家族の生活を支えました。赤貧イモを洗う少年時代。

 私は9歳で、弟二人に妹二人の世話や両親の手助けをする少年家長の役目を担い、生きて行く生活必需品の確保に懸命だった。

 よく山へ芝刈りに行く。片道3〜4キロの山へ入り、枯木を集めて束にして背負い帰路につく。当時私は、文学書が好きで薪を背負って本を読みながら歩いて帰る姿が丁度、二宮金次郎そっくりだったので、道ですれ違う人たちに「あら今日も朝鮮の二宮金次郎はんが行かはるわ、ちいさいのにえらいね」と褒めてもらったりした。

 何よりもつらかったのは父の病気の発作だ。一度痛みが始まると、この世の人とは思えない形相で苦しむ。創氏改名や、日本が戦争に突入し戦雲怪しくなってゆく中、私は無事に小学校6年を卒業することができた。これが私の誇り高き最終学歴だ。

 母にとっての晩年は、小春日和の幸せな日々であったが、あの頑丈な体も、寄る年波には抗うすべなく、80歳の誕生を前に不治の病になった。一カ月ほど入院した頃、覚悟はしていたが、医師から「余命あと二〜三日」と宣告されたまさにその日、混濁した意識の中で母がポツリひとこともらした。「ポンジョヤ、ノガ・チョンマル・ヒョジャヨックナ。コマプタ」(お前、よく親孝行してくれてありがとう…)。

(2006.3.15 民団新聞)
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