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<寄稿>追悼・偉大な歴史家上田正昭先生…吉成 繁幸 |
「渡来人」正当に位置づけ…日韓友好にも大きな足跡
宮司でもあり歌人でもあった
今や晩秋の大阪の風物詩にもなった四天王寺ワッソ。古代の朝鮮半島と日本列島の人々との深くて濃密な交流を研究する立場からその開催を当初から強く支援されていた歴史家の上田正昭氏が、去る3月13日88歳で亡くなられた。民団とも関係が深く、その生涯の大半を歴史研究を通して日韓友好に尽力された氏の偉大な業績を振りかえる。
氏は1927年4月29日、兵庫県城崎郡城崎町生まれで、中学生のとき京都府亀岡市の小幡神社の社家・上田家の養子となった。宮司になるため國學院大学専門部に入学し、折口信夫らに師事した。晩年まで歴史研究のかたわら小幡神社の宮司も務めていた。
國學院大学卒業後、1947年教員を目指して京都大学文学部史学科に入学、林屋辰三郎に師事した。卒業後高等学校教員を経て、京都大学大学院に復帰し、京都大学助教授を経て教授に就任した。京大時代の親友に、梅棹忠夫や梅原猛らがいる。
歌人としても活躍し、2001年には歌会始の召人を務めている。
また、高麗美術館の館長も務め韓国の文化を日本に数多く紹介した。
氏の専攻は日本及び東アジアの古代史で、特筆すべきは、それまでの日本古代史家のほとんどが扱ってこなかった古代の朝鮮半島と日本列島の人々の交流を深く追究したことだ。
日本の古代国家の成立や古代日本文化の発展に朝鮮半島から大量に渡来してきた人々の活躍は欠かせない。その大きな役割を指摘し、「帰化人」を「渡来人」と言い変えるべきだと氏が最初に指摘されたのは1965年発刊の『帰化人‐古代日本国家の成立をめぐって』(中央公論社)である。
氏は、日本古代国家がまず存在して、その国家に朝鮮半島からやって来た人々が「帰依」したのではなく、主に朝鮮半島からの人々をして(いくたびかの渡来の波を経て)日本古代国家が成立したのであり、「帰化人」の呼称を改める必要があると主張した。
氏の考えは広く受け入れられ、今では、「渡来人」の語は、教科書を含めてほとんどの歴史書で当たり前の語彙として用いられている。
2001年12月、今上天皇が、日韓共催のサッカーW杯大会を前に韓国に対する印象を記者に問われて「桓武天皇の生母の高野新笠の祖先が百済王族で、武寧王の子孫であると続日本記に書かれていることに強い縁を感じます」と述べたことがある。
この史実を、上田氏は前著や『大和朝廷』(角川書店)の中で記述している。この時は、右翼の街宣車が京都大学や自宅にまで、連日押しかけて、上田氏に罵声を浴びせたという。
互いに真実を理解しあうこと
気骨ある偉大な歴史家が去った。日本古代史研究の分野においての甚大な喪失感ばかりでなく、日韓友好の大きな懸け橋が崩れ落ちたようだ。
上田氏の日韓友好に対する基本的な立場は「相互に真実を理解しあう関係」であった。相互に観念や好き嫌いが先行するべきではないということだ。真実への確信に基づいて右翼の脅迫に負けなかったことがまさにそうであり、最近では竹島(独島)の教科書記載についても、真実が書かれずに観念に基づいただけで載せるべきではないと発言されていた。
歴史的事実はただひとつだが、その事実をどう解釈するかはいろいろな時代の価値観(観念)によって左右される。時代の空気に影響されず、ひたすら真実を追究する人々を本当の学者というのだろう。(編集者)
(2016.3.30 民団新聞) |
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