民団新聞 MINDAN
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民族学級の昨日、今日

<1>民族学級の起源



 21世紀を目前にひかえた今、「共生」が華々しくうたわれるようになった。「21世紀を人権の世紀に」。これは、私の暮らす大阪府のスローガンだが、同様のスローガンを掲げる自治体は多い。

 これは、「共生」「人権」がこの社会の価値観として着実に根を下ろし始めたことを示しているが、一方で、多くの同胞たちが、「民族」「人権」を掲げ、果敢に立ち上がってきたことの結果であることを決して忘れたくない。

 民族教育への関心もいつになく高い。民団、総連はもちろん、それぞれの地域で取り組む同胞団体のほぼすべてが、民族教育の重要性をあらためて認識し、同胞保護者たちが多様な場で民族教育を模索するようになった。

 かつてのような帰国を前提とした民族教育ではなく、普遍的人権の観点に立ったこうした民族教育の模索は、子どもたちを取り巻く現実からの出発であり、保護者たちの熱い思いによる。こうした模索は、スローガンとしての「共生」「人権」から、その具体的な中身を問うという次のステップへと発展し、民族教育の保障が、いまや「共生社会」のバロメーターだとする視点もある。

 差別の課題は、「みな同じ」「平等」の視点である一定の克服が可能な一方、民族教育の保障は、「みなちがう」という一歩踏み込んだ人権意識の確立が求められる。言わばこの社会が多民族・多文化社会であるという前提に立った「共生」への具体的な行動が求められるのである。

 私は、この紙面を活用して「共生社会」への具体的なステップとして、また在日同胞の普遍的な人権確立のステップとしても、いかに民族教育が重要であるのかを一考察をしてみたいと思う。とりわけ公立学校における民族学級などの取り組みを紹介しながらの発信としたい。


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■民族学級の起源

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学校建設、全国500カ所で
帰国に備え、民族教育運動が全国化

 民族学級の起源は、解放後すぐにまで逆上る。1945年の民族解放を迎えた私たち在日同胞は、植民地支配36年間に奪い取られてきた母国語や民族の歴史を子どもたちに教えるべく、民族学校建設運動に取り組んだ。全国的規模で起こった民族教育運動は、祖国から教科書を取り寄せ、教員研修を行い、少しずつ学校としての姿を整えていった。厳しい貧困の状況にありながらも、子どもたちに「ウリマル(母国語)」を教えたいとした当時の同胞社会の思いは、全国に500カ所以上の民族学校(母国語講習所なども含め)を開設したことからも伺える。

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日本文部省は容認せず
「覚書」で生き残りかける

 一世たちは、必死に子どもたちに母国語を教え、いち早く帰郷したいと考えていた。ところが、1948年1月に文部省学校教育局長名義の通達「朝鮮人学校の取扱について」が出される。

 その内容は、「朝鮮人学校」を無認可校と規定し、就学年齢に達した同胞子女は、日本人同様公立学校に通うべきだとするものであった。

 この通達を受けた都道府県は、「朝鮮人学校」閉鎖を求めてきた。これに対し同胞社会は強く反発、粘り強い交渉を繰り広げるが、4月以降本格化した実力行使による強制閉鎖の波は、ついに大きな衝突へとつながり、同胞密集地域である大阪・兵庫の地域では、連日府庁や県庁前に同胞たちが押し寄せ、知事に強制閉鎖の撤回を求めた。

 1時好転の兆しはあったものの、当局の強硬姿勢は変わらず、「朝鮮人学校」は強制閉鎖される。この過程で少なくない死傷者や拘束者を出し、大阪では、警官隊の発砲によって当時16才だった金太一少年が犠牲になるという事態にまで発展した。

 5月になり文部省と朝鮮人教育対策委員会が覚書を交わした。これを受け、大阪府をはじめとした地域で、同様の覚書が交わされた。この「覚書」の中に、公立学校に在籍することになる同胞子女が、課外の時間に民族教育を受けても構わないと明記された。これが民族学級開設の起源となる。

 これに基づき、大阪府内の30校以上の公立学校に民族学級が設置され、それを担う30名以上の民族講師が大阪府教委によって措置された。また、東京と同じく、大阪においては公立朝鮮人学校がしばらくの間設置されていた。


□■ 在日同胞の熱い思いが出発点に

 一方、民族学級は、50年代後半から60年代にかけて急速に減少していった。その理由は、学校現場の厳しい差別と行政の無施策によるもので、それは、50年代から始まる。総連の民族学校再建の時期と重なっている。

 大阪市立北鶴橋小学校で民族講師として36年間勤務された金容海先生は「毎日針のむしろに座っているようだった。職員室にいても、誰が話しかけることもなく、子どもたちに会えるのが唯一の救いだった。本校は同胞子女の多在籍校で、300名を越える子どもたちがいたが、この子どもたちを講堂に集め、黒板を間に挟み左右で授業をした。誰一人として講堂をのぞこうとする日本人教員はいなかった」と振り返る。時には民族講師にも加えられた差別は、子どもたちにはより厳しく向けられ、民族学級は衰退の道をたどることとなった。

 1974年、当時大阪府内におられた民族講師11名によって、大阪府教委に待遇改善を求める要望書が出された。これは、「このままでは民族学級がなくなってしまう」という危機感から出されたものだった。実際に、民族学級がなくなった地域がすでにあった。

 80年代には再び存亡の危機を向かえたが、多くの人々の闘いによって、現在は、大阪府内11校に覚書に基づく民族学級が存続し、11名の常勤民族講師が措置されている。

 民族学級は、同胞社会の財産である。民族学級を守り育んでいくためには、そのための取り組みが必要である。分断状況を越えた素朴な民族社会への愛情と子どもの人権の観点に立ち、今以上に民族学級への関心を持って欲しいと思う。

 民族学級のもうひとつの歩みについては次回でふれる。

金光敏(民族教育促進協議会事務局次長)

(2000.01.19 民団新聞)



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