民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
民族学級の昨日、今日 <2>

大阪市立長橋小での開設



大阪府全体を視野に発足した
大阪府民族講師会
(99年秋、大阪市内で)

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同胞児童が民族差別是正訴え
克服への思いこめ開設へ

日本人の子どもたちと教員も協力

 「僕は朝鮮人で、新井ことパク・シン(仮名)です。長橋小学校では、部落差別をなくし、部落解放のために、いろんなことをしていますが、僕は朝鮮人差別の問題が忘れられていると思います。僕も3年のとき『チョーセン』と言われて差別されました。僕は差別をなくしていきます。清き一票をパク・シンにお願いします」

 この言葉は、1971年に大阪市立長橋小学校の児童会選挙に当時5年生だったパク・シン君が立候補した際に、訴えた内容である。

 長橋小学校は、大阪市西成区にあり、同和地区を校区に持つ同和教育推進校である。この長橋小学校では、部落の子どもたちの学力保障の一環として放課後に補充学級を行っていた。

 しかし、この補充授業に同胞の子どもたちが参加できなかった。このことに対する問題提起、いや告発を当時5年生の少年が児童会選挙に立候補する形で行った。

 パク君は、部落の子どもたちと同じように差別を受ける自分たちも補充授業に参加できるようにすること、そして反戦・平和学習の中で芽生えた民族への思い、「ウリマルを教えてほしい」という訴えを行った。

 この訴えは、長橋小学校の教員集団に衝撃を投げかけた。差別に苦しむ朝鮮人の子どもたちを放置してきたのではないか。

 長橋小学校の児童会選挙の結果は、パク・シン君の当選であった。当時のことを振り返るパク・シンさんは「掲示板にある『パク・シン当選』の文字を見て、ピクリとも動けなかった。まさか自分なんかに投票してくれる日本人がいるとは思っていなかった」と。選挙後、長橋小学校では、民族学級設置にむけ動き出す。

 ちょうどその頃、ある事件が起きた。夏休みを直前に控えた7月4日、朝鮮奨学会関西支部長、゙基亨先生を招いての講演会が開かれていた。それは講演中に伝えられた。南北両政府が極秘の内に進めた「7・4南北共同声明」が突如発表されたのだ。「自主・民主・民族大同団結を原則に祖国統一をめざす」。

 講演中に伝え聞いだ基亨先生は、同胞の子どもたちと、そして日本人の子どもたちを前に感動の涙を流しながら語りかけた。

 この感動は、すぐに同胞保護者たちにも伝わり、まだ一世が多かった同胞社会では、「統一への思い」と「郷愁」とが強く重なった。「子どもらに母国語を」。機運は高まっていった。

 差別を克服せんとして立ち上がった同胞少年と、統一への機運を等身大に受け止めた保護者たちの思い、それを受けとめんとする日本人の子どもたちと教員集団が一丸となり、1972年11月22日、長橋小学校に民族学級が開設された。覚書に基づく民族学級が衰退の途にあったこの時期、もう一度民族教育への息吹がよみがえる歴史的瞬間であった。

 民族学級の講師は、朝鮮奨学会関西支部が窓口となり、統一の視点に立つ民族教育を目指して韓国・朝鮮籍からそれぞれ同数が招聘された。その中には、現在、国際人権法の専門家で、人権運動の一線で活躍される龍谷大学教授の金東勲先生と、それ以来現在に至るまで28年間にわたって同胞の民族学級に携わって来られた朴正恵先生がいた。

 長橋小学校の民族学級は、民族教育の新しい道筋を引いたことで画期的であった。覚書民族学級が激減し、行政サイドも民族学級を廃止する方向で大きくかじをとっていた時期であったため、当事者の思いを受ける形で再び民族教育の機会を確保したことは、すべての学校においても民族学級が取り組めるという先駆となっていった。

 大阪市内を中心にその後、民族学級は少しずつ広がり、それは市外へとつながっていった。現在、大阪市内の85校や東大阪市内の23校をはじめ、大阪府内170校を越える小中学校に民族学級(名称は多様)が設置され、30人を越える民族講師が日々同胞の子どもたちの民族教育に汗を流している。

 解放直後から始まる公立学校における民族教育の営みは、世代を越え、多くの同胞たちの思いを受け継ぎながら、脈々とつながっていっている。民族学級を経た子どもたちが、本名で暮らし、自らの可能性を生かそうと頑張っている姿を見るとき、私たち民族講師が励まされる瞬間である。

 この子どもたちもまた、同胞社会の財産であることを伝えたい。

(民族教育促進協議会事務局次長)

(2000.01.26 民団新聞)



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