民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<21>

元朝鮮学校教員に聞く=上=



尹煕甲氏

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両親帰国も居残り
教育活動者として専念

 在日2世の尹煕甲氏(66)は1953年に東京朝鮮高級学校を卒業し、深川の第2初級学校の教壇に立った。朝鮮総連(総連)が結成される2年前のことで、当時はまだ在日同胞のための民族教育も行われていたという。その学校で7年、そして10条の中・高級学校で11年、合わせて18年間の教員生活を送ることになったが、55年の総連の結成を機に、「北だけが祖国」という韓徳銖議長の路線転換にともなう金日成一辺倒の偏向教育に早くも疑問が生じていた。

 しかし、両親が「帰国」したこともあり、しばらくは公にすることは控えていた。東京朝鮮高級学校3期生の尹さんの同級生には、1963年に北に「帰国」して朝鮮中央放送の日本語アナウンサーになったものの、スパイ容疑をでっち上げられ銃殺された、かつての在日朝鮮中央芸術団(現在の金剛山歌劇団)のスター、朴安復さんがいる。現在は在日朝鮮人子弟の民族教育を考える懇談会を主宰する尹煕甲氏の話を2回に分けて掲載する。


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 1960年10月、25歳の時に両親が北韓に帰国することになった。父の尹柱実氏は「地上の楽園」を鵜呑みにしていた訳ではない。ただ、6・25動乱後間もない廃墟と化した祖国の窮状を憂い、慶尚南道南海出身だったが、「北も自分の祖国。石ころ一つ運ぶだけでも祖国建設に尽くしたい」との心情からだった。一人息子の煕甲氏にも「一緒に帰ろう」と声をかけた。

 しかし、当時の総連の方針は専従活動家や教育関係者は人手が足りないから後で帰れというものだった。在日同胞の教育活動に専念すべしと言われ、総連内でも中堅幹部の扱いとされたことで、「帰国」した両親は平壌に住むことができた。


■サッカリンは起爆剤

 北送事業の開始後、5、6年は北から自由に手紙が出せない状況だったと煕甲氏は指摘する。両親からの手紙は「帰国」後、何年かして届いた。冒頭に「金日成主席の暖かい配慮で何不自由なく幸せに暮らしている」と決り文句が書いてあるが、内容は「物送れ」という無心だった。

 暗号を使った手紙の話もほかから聞いた。「縦書きだったら書いてある内容が本当で、横書きだったらウソ」とか、幼子を引き合いに出して「あの子が大学を卒業してから帰ってこい」と、20年後を示唆することで「帰国」を断念させようとするものもあった。

 当時、中央郵便局以外からは北に荷物を送ることができなかった。送っても無事に届くかどうかわからないと郵便局員は言ったが、古着のほかに肝臓が弱かった母には薬を、酒好きの父にはウイスキーをせっせと送った。糖分を補うためだとサッカリンも送ったが、爆薬の起爆剤に使うために当局が「帰国者」から買い上げたと、後に知らされた。

 60年代後半から親族訪問が始まったが、日本との国交がないため、2国間協定で年間200人程度のごく少数の枠でしか北を訪れることができなかった。それもお金や物資を運ぶ役回りで、親族が住んでいる所には行けないし、北の実態は決して見せないという。ある程度予想はしていたが、どうも北はおかしいと強く感じるようになった。

(2000.04.05 民団新聞)



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