民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<22>

元朝鮮学校教員・尹煕甲氏に聞く=下=



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脱退後、墓参も拒否
特権階級だけが自由往来

 朝鮮学校の教師だった尹先生の疑問は、祖国が1945年の日本の植民地支配から開放され、55年に総連が結成されるまでの10年間、総連が祖国と民族の独立のために命を賭して死んでいった民族主義者、愛国主義者を無視し、彼らの過去を否定し、排除してしまったことに尽きる。

 総連結成にいたる内部の主導権争いは熾烈だったが、無名に近かった韓徳銖が北韓の肝いりで議長になると、韓議長は「この指止まれ」という指示に飛びつかなかった運動家を「○○代表団」という名目をつけては次々に北に送り返した。こうして日本における体のいい粛正が始まった。「戦前から名をはせ、同胞大衆にも人気のあった韓徳銖以上の運動家が50人以上も送られた」と、尹先生は推測する。

 当時流行った言葉に、「先覚者、後覚者」というのがあった。金日成体制に追従し、路線転換に従う者は、早く目覚めた者として総連組織でいいポストが与えられるが、「金日成だけが民族を解放したとするならば、戦前に拷問されたり、獄中で殺された民族主義者はみな民族の反逆者か」と歴史の評価をめぐって異議を唱える者は、東京・八王子の総連幹部養成所「中央学園」で自己批判をもとに徹底的に思想再教育が実施された。


■思想点検と教師の追放

 1958年頃、朝鮮学校内部に「ホワイトパージ」の嵐が吹いた。これは、6・25動乱を前後して韓国から密航し、朝鮮高級学校の教師を務めていた者や日本人を妻にしていた者を、思想・信条を再点検するという理由で北韓特有の「出身成分」によってふるいにかけ、金日成への忠誠を計りにかけたものだ。多くの教師が泣く泣く職場を追われた。

 教育現場はますます北一辺倒の歴史のねつ造、歪曲に拍車がかかり、嘘を教えなければならなくなった。差別と貧困のどん底にあえぎ、大学にも行けない、就職に希望も夢も持てない教え子に、尹先生も1時期とはいえ、バラ色に輝く社会主義の祖国へ「帰心矢の如し」という心情をかきたてたのも事実だ。次第に良心の呵責に耐えられなくなり、尹先生は71年に辞表を提出したが受理されず、やむなく3年間も身を隠すという実力行使に出た。

 学校を辞めたとたんに平壌に住んでいた両親は「活動者の家族」でなくなり、酷寒の咸鏡北道に追いやられ、数年後に相次いでこの世を去った。一人息子として墓参りに行きたいと申し出たが、総連から「戦線離脱者、民族反逆者」となじられ許可が下りなかった。

 「帰国事業」について、尹先生は「60年までなかなかまとまらなかった総連を一つにまとめ、組織を強化するための政治的な大陰謀策だった」と厳しく批判する。韓議長にたてつく者は地方に追いやり、総連の中枢を自身に忠誠を誓う者で固める策動だったというのだ。

 当時の幹部は今や高齢者になっている。韓議長ら一部の特権階級につながる「帰国者」だけが、日本を往来していることを知る老幹部の不満を封じるために、北当局は彼らの「帰国」親族も病気治療名目で、北の指導員とともに15日ビザで日本に里帰りさせていると尹先生は明かす。先生のかつての同級生も2人来たが、「民族教育を考える懇談会」が総連の機関紙「朝鮮新報」でたたかれたことから、先方に迷惑がかかると判断し、会わなかった。人を介してお金だけをことづけたという。

 「帰国事業」を総括しないどころか、幹部の身内だけは日本に出入りさせる総連の恣意的なやり方が、今日、一般同胞からそっぽを向かれ、総連離れを引き起こす一因になっているのは間違いない。

(2000.04.19 民団新聞)



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