民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<25>

朝鮮学校元教員の梁永厚さんに聞く…(上)



 関西大学で講師を務める梁永厚さん(69)は、4歳の時に韓国・済州道から日本に渡って来た。大学卒業後、就職が決まらないでいた1951年に留学生同盟の先輩からの誘いで朝鮮学校の教師に就任、閉鎖されていた大阪・巽町(現在の生野区)の中西朝鮮小学校の再建運動にも身を投じた。

 「帰国運動」が始まった1959年当時は教師生活も9年目に入り、大阪朝鮮高級学校で地理を教えていた。朝鮮学校に在籍していた69年までに約5000人の同胞生徒に関わり、そのうち自ら「帰国」を勧めた生徒もいる。半世紀近くを教師として生き、北韓の地で行方不明になった教え子への責任を痛感している梁先生は、「在日同胞が手をとって問題解決を」と訴える。先生の話を2回に分けて掲載する。


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北の宣伝にすっかり乗せられ
ずるずると運動に

 教師として初めて赴任したのは、神戸の朝鮮中高級学校だった。社会科を担当したが、朝鮮学校の教壇に立つ朝鮮人の先生が朝鮮語を知らないというのはどういうことだ、と生徒からも非難される厳しいスタートになった。大学までずっと日本の教育を受け、言葉をはじめ民族的な素養は解放後、周囲の一世たちから聞きかじりで覚えたに過ぎなかったから無理もない。

 神戸の学校から中西小学校を経て、1955年4月より大阪の公立朝鮮学校へ転任。同校の校内紙を担当していた梁先生は、58年6月、朝鮮戦争休戦5周年を迎える前に玄関の黒板に「この戦争は同族相殺(相食む)悲しい戦争だった。私たちの時代には2度とこういうことが起こらないように」と書き、文章の最後にキケロの詩「もっともよい戦争よりももっとも悪い平和を」の一文を引用した。これが問題になった。

 「朝鮮戦争は正義の戦争である」という北韓や朝鮮総連の歴史観を否定したというのだ。総連は先生を登校禁止にし、自宅で自己批判をするようにさせ、何度も自己批判文を書かせた。学校をやめようと思ったが、学生時代から寝食の世話になり、学生運動のリーダー核だった当時大阪朝鮮高校の韓鶴洙校長のとりなしで、同校に引き取られることになった。夏休み中の人事異動であった。「札付き」の先生ということで、ほかの教師から白い目で見られたという。

 後日談だが、私淑していた韓校長は71年に「在日朝鮮教育者代表団」の一員として北に送られ、70年代の中頃、強制収容所送りになった。そして殺され、夫人も発狂して絶命したと、萩原遼氏の著書『北朝鮮に消えた友と私の物語』に書かれている。


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「帰国」運動へ

 59年に東京から鄭求一という新しい校長が赴任してきた。学校運営は北と同じ仕組みで、職員会議よりも北に習って評議委員会が牛耳っていた。梁先生は評議委員会の書記として「帰国」運動に関わるようになった。「帰国」実現を求めて大阪から東京までデモ行進を組織したこともある。行く先々では、子どもたちもが動員されていた。

 「帰国」第一船の模様は、学校の寄宿舎に詰めかけ2時間近くテレビで観た。

「確かに感動的だった。当時は北の中身、総連の体制がどういうものか、上っ面しか知らず、ずるずる運動に入り、宣伝にすっかり乗せられていた一教師だった。北のあり方に大きな疑いは持たなかった」。

(2000.05.24 民団新聞)



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