民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
北韓の国家的犯罪を斬る<26>

朝鮮学校元教員の梁永厚さんに聞く…(下)



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教え子たちを北へ
悔やみ切れぬ胸の痛み

 1960年代の初期には、「帰国」する生徒がいる一方、総連の「地上の楽園」宣伝に乗って、日本の学校からの転入生が多く、大阪の朝鮮学校の全生徒数が約6000人になったこともあった。そのうち担任をした生徒は延べ300人くらいで、生徒や父母から「帰国」について意見を求められると、「希望を持って帰国を」と勧める立場にいた。

 「帰国」の一つの背景には、済州道の「4・3事件」や6・25動乱で身辺の危険を感じ、密航して来た子どもがいた。彼らは日本の学校へは入れないので朝鮮学校が引き受けていた。入管当局に捕まり、強制送還で韓国に帰ると「赤」扱いされるのでは、という心配から「帰国」を選択した生徒もかなりいた、と梁先生は指摘する。


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「帰国」の2つのタイプ

 「帰国」する生徒たちには二通りあった。一つは、朝鮮学校の「北」一辺倒の教育を真に受けたタイプ。もう一つは、密航してきて親戚の世話になっている辛さから荒れていたタイプである。

 「北を信じて帰った教え子のうち、亡くなったとか、行方不明になったという消息を聞くたびに、残っている教え子が気がかりになる。とりわけ荒れていた生徒は、帰国後真っ先に収容所送りになったのではないか、と後ろ髪を引かれる」。さらに「北」における「帰国者」への人権抑圧や近年の食糧難に即すと、「ともかく生きていてほしい、という祈りの心になる」と梁先生は言う。


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総連組織への登用

 梁先生は1962年に校長に任用された。その任用は思想的に問題のある教師だから、「嫌なら辞めろ」という前提で、学校統合運動で失敗をした地域の学校を任せるといういびつなものであった。ところで、総連組織は中央の決定に下部は無条件従わねばならない「独裁」的組織で、中央議長の権限は絶対的であった。その議長を支え、後に自分がその地位に就こうとしたのが金炳植である。その金炳植が実権を握って配置をした総連大阪本部の委員長に請われて、校長職の途中から部長不在の大阪本部国際部副部長になった。69年の夏である。

 その後、入官法の改正や外国人学校法案問題が浮上すると、その担当として当時中央の河昌玉社会経済局副局長がやって来た。大阪の弁護士会などとの人的交流を軸にてきぱき仕事を処理したことが認められ、71年の初めに中央の社会経済局に抜擢された。

 中央では人権問題の担当を経て、信用組合の担当となったが、ときには金炳植のゴーストライターもさせられた。そうしたなかで見た総連中央の実態は、金日成の誕生日を祝うためや韓徳銖が金炳植にへつらうために下部を踏みつけても「収奪」する手法の横行であった。

 「これが社会主義か。この組織ではだめだ」と思っている矢先の72年秋、総連内部の権力闘争を象徴する「金炳植事件」が起きた。それで総連を辞める踏ん切りがついた。


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北送事業とは何だったのか

 在日の戦後50年を考える上で、「帰国運動」は、当時、韓国政府と民団が「北の労働力を補強する北送運動だ」と反対をした。今日からすると的を射た見方であった。しかし、当時の梁先生は「地上の楽園」説に立って、教え子たちを北へ送ってしまった。今は悔いても悔いたらない思いで胸が痛む。身内も「帰国」しているが、悔いるだけではなく何かをしなければと、80年代に入り、金日成批判を始めた。それで今では教え子や身内とも連絡は途絶えている。

 「帰国」者問題は今、人道と人権の問題である。いわば「北」に「人質」をとられているので、「帰国」者問題を取り上げることをためらっている人が多い。でも黙っていては事態は明るくならない。総連内部の良心的幹部も立ち上がってくれることを願いながら、総連に対し「本国とコンタクトを取り、帰国者の消息を開示せよ」「特権幹部の子女だけではなく、帰国者の日本への自由往来の実現を図れ」「人道的援助、親族対面の自由な北訪問を認めよ」など提起する。民団にも「帰国」者の人権擁護と人道支援を訴えたいと、梁先生は結んだ。

(2000.05.31 民団新聞)



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