民団新聞 MINDAN
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ハ病者を強制隔離・労働、断種

国賠訴訟の李衛さんが語る



川崎市ふれあい館で講演する李さん

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「らい予防法」廃止でも心の傷癒えぬ
生活、医療援助が急務

 ハンセン病と韓国人であるがゆえの差別と闘いながら99年3月、「らい予防法人権侵害謝罪・国家賠償請求」訴訟の第1回提訴原告の一人として参加した、国立ハンセン病療養所多磨全生園(東京都東村山市)の在日韓国人、李衛さん(73・日本名・国本衛)が1日、神奈川県の川崎市ふれあい館で、「二重の差別とたたかって」と題する講演を行った。

 1941年、ハンセン病(当時はらい病と呼んでいた)を発症した李さんが第一区府県立全生病院(現・多磨全生園)に入院したのは14歳の時。

 当時、入院患者は約1200人。「約3人の看護婦が何百人もの患者に対し、消毒をすることもなく、たった一本の針を回し打ちしていた」と、当時のずさんな医療行為について証言した。1944年、李さんは注射によって化膿した左ももを、医者の変わりをしていた看護士によって、ハサミで切り込まれるという想像を絶する体験をする。

 1907年、ハンセン病患者の隔離、撲滅を目的とする「らい予防に関する件」の制定、1931年、絶対隔離政策の強化を目指す「らい予防法」の改正以降、強制隔離、断種、強制労働などが一般社会から隔離された療養所内で行われていた。

 一度入院した患者は外出が許されず、見つかった者は、コンクリート塀で厳重に囲まれた「監禁室」に閉じこめられたという。さらに、反抗者や逃避を繰り返す者は、草津楽泉園の「特別病室」という名の「重監房」に送られた。冬は零下18度にも下がる酷寒の場所。四重に囲まれたコンクリート塀。重監房が廃止されるまでに(1939〜47)92人が「投獄」され、うち22人は「獄死」、19人は凍死で亡くなったと、無惨で痛ましい事例を交えて話した。

 1943年、ハンセン病の特効薬「プロミン」が開発され、その後、ハンセン病は「不治の病」ではなく完治する病気であることが明らかになったが、国の隔離政策はその後も引き継がれた。

 現在、李さんはC型肝炎による肝臓病を患っている。ハンセン病療養所内でこのC型肝炎が猛威をふるっているという。一般社会での発症率は0・7%、療養所では24%と、実に4人に1人が発症。感染源はかつて療養所で行われた大風子油注射と見られている。李さんは多くの僚友が肝臓病で亡くなっていると、行き場のない怒りを表した。

 1996年、長い闘争の末、1世紀に及んだ「らい予防法」が廃止された。

 李さんは「社会的偏見が取り除かれる訳ではないが、ようやく市民権を与えられた」と語る一方で、「らい予防法」を廃止する法律でありながら、廃止理由や、さらに時の厚生大臣は「らい予防法」が過ちだとは一言も触れていないと、国の責任を言及した。「これまで人間を否定され、日本社会の裏側で生きてきたのは何だったのか」。

 1998年7月、ハンセン病患者13人で提訴した熊本訴訟提訴に続き、翌年3月に東京訴訟提訴、11月に岡山訴訟提訴が行われた。

(2000.06.07 民団新聞)



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