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この人この顔

映画「あんにょんキムチ」の松江監督



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自分探しの旅、気負わず
生活者としての視点大切に

 「面白い映画を作りたかった」―。祖父の死をきっかけに家族のルーツをたどった日本国籍同胞・松江哲明監督のドキュメンタリー映画「あんにょんキムチ」が8月12日から東京・BOX東中野で上映されている。キムチが大嫌いで、韓国を拒絶してきた監督が、祖父の歩んできた人生を知ることで、韓国を受け入れる。気負わず、韓国人の血を引く日本人として生きる松江監督に話を聞いた。

 日本映画学校の卒業制作として企画した「あんにょんキムチ」は、松江監督にとっても「自分探し」の旅となった。

 撮影では家族や親族、祖父の故郷・韓国の忠清南道でのインタビューを精力的に行った。同映画には暗くて重いといったメッセージは込められていない。生活者としての視点から捉えた家族や韓国。時には笑みさえ出るシーンに、「ひょうひょう」という言葉が似合う松江監督の人柄が、映画に反映されている。

 5歳の時に家族が帰化。この時、父方の「柳」から母方の「松江」姓に変わった。「国籍が変わったことより、僕にとって名前が変わったことの方がインパクトがあった」という。

 家庭では食卓に必ずキムチが並べられたがキムチは大嫌い。映画でもキムチを吐き出すシーンが映し出される。

 韓国に対するイメージは「従軍慰安婦」「強制連行」「差別問題」。どれもテレビや新聞から与えられた言葉のイメージでしかなかった。韓国に対するイメージは悪く、意識的に拒絶してきた。拒絶してきた思いとは裏腹に日本国籍で日本名を名乗ってはいても、小学校の社会科の授業で韓国の話が出ると「ひやひやしていた」という経験もあった。


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 おじいちゃん子。映画の中で松江監督が祖父の写真を持って立っていた場所は、祖父と一緒に行った場所だ。祖父の松江勇吉(劉忠植)さんは第二次大戦中、出稼ぎのために渡日し、帽子屋を営む。祖父は日本で生きるために日本人になりきろうとした。

 14歳の時、祖父が他界。最後の言葉は「哲明バカヤロー」。何度も名前を呼ばれたが、眠くて祖父の枕元には行かなかった。後に後悔した。「『哲明バカヤロー』は最後の言葉として強烈だった」


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 根っからの映画少年だ。中学3年の進路相談で映画監督になると宣言。入学した日本映画学校で、韓国を拒否していた松江監督の気持ちに変化が生じた。年齢や経験の異なる人たちや、初めて親類以外と接した韓国の留学生との交流。自分の出自を明かすことがプラスになった。

 松江監督にとっての韓国は身近な家族。撮影の取っかかりとして、祖父の存在は大きかった。後に祖父が日本人になりきろうとしたのも、家族のためだったことを知る。

 撮影当初、「日本人か韓国人かに決着を」という気持ちがあった。撮影を進めていくうちに「決着がつかないからこそ、ゴチャゴチャしている状態が面白い」と思えるようになった。


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 撮影を終え、現在の心境を「映画で自分がどう変化したかは正直言ってよく分からない。変化というより、視点が増えたことの方が大きい」という。

 「考え方や味覚など、日本人化している部分もあるけれど、それよりも『松江哲明』の個人的な見方とか、一人の人間としてこれからも韓国と関わっていきたい。韓国は大きなテーマです」と話す。

 毎年行われてきた「祭祀」。「じいちゃんの残した大事な行事。これからも引き継いでやっていきたい」と語る。

 同映画は10月に名古屋、12月に大阪での上映を予定。また、BOX東中野では「あんにょんキムチ」公開記念トークショーとして、午後9時15分から、9日にゲイ・ライターの伏見憲明さん、16日にシンガーソングライターの趙博さんを招く。

(2000.09.06 民団新聞)



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