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青森県光星学院高校野球部
甲子園ベスト4の金成奉監督



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青森勢で32年ぶり
夏の甲子園でベスト4に導く

 今年の第82回全国高校野球選手権大会で、青森県勢としては31年ぶりのベスト4を果たした光星学院高校。同校野球部の監督を務める在日韓国人の金成奉さん(33)は「驚異的な子どもたちの粘り強さによって、甲子園で校歌を歌う喜びを味わった」と当時を振り返る。選手たちと勝ち取った4強入り。指導者になる思いを持ち続けたその強固な精神力。野球にかける熱い思いは、着実に部員たちへ受け継がれているように感じた。


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指導者への執念実る
悲願の全国制覇、来春こそ

 8月19日、準々決勝で光星学院は樟南高校(鹿児島)を破り、準決勝へ進出した。準決勝の対戦相手は優勝候補の呼び声高い智弁和歌山(和歌山)。対戦では敗れたものの、この敗戦を糧にすでに来年の「日本一」を目指して練習は始められている。

 光星学院の監督就任当時、全国で勝てる野球をするために、徹底したスパルタ練習を行ったという。「野球は一人では何もできないスポーツ」というのが持論だ。

 「一人は皆のために、皆は一人のために」という言葉を念頭に置きながら指導した。

 グラウンドでは監督の指導のもと、生徒たちの気迫に満ちた練習が行われている。


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 大阪・吹田市生まれ。小学校3年生の時に野球の楽しさを知り、のめり込むようになった。中学時代はセカンドを守った。当時、高校で甲子園に出場することと、プロ野球選手になることを夢見ていた。中学3年の頃から将来的に指導者になることを思うようになった。

 高校3年の時に副キャプテンを務め、セカンドでレギュラー。高校最後の夏の大会では優勝候補を破っていたが、監督の不祥事が発覚し、地区大会の予選を辞退した。立ち直れなかった。

 「夢を見ている子どもたちを甲子園に連れていってあげたい」。指導者になる思いは一層強くなった。


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 仙台の東北福祉大学の1年時、肩を脱臼。治療を受け、手術もしたが、結局、プレーヤーとしては復帰できなかった。大学2年の終わりに、伊藤義博監督から「自分の右腕になってチームに貢献してほしい」と誘われ、3年から学生コーチとして指導にあたった。同級生や先輩もいる中途半端な立場だった。

 「指導の難しさやもどかしさもあったが、その時の経験は間違いなく、今の自分に生きている」

 大学卒業後、サラリーマンの経験を経て、母校の東北福祉大学で26歳から28歳までコーチを努めた後、95年11月、光星学院野球部の監督に就任した。


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 大学の先輩である前任者は92年に監督に就任し、九三、94年にはそれまで成績の振るわなかった光星学院を夏の決勝に進むまでに鍛え上げていた。優勝への周囲の期待も大きかったが、準優勝にとどまった。

 その後任としては優勝へ導かないわけにはいかなかった。しかし96年夏、誰もが優勝を疑わなかったチームが負けた。初めて味わった挫折。野球を止めようと思った。責任をとるため辞表を提出した。

 苦悩の中で訪ねた伊藤監督から、指導者の本当の目的について助言を受けたことがきっかけとなり、光星学院野球部の監督を続ける決意を固めた。「負けた悔しさ、勝つ厳しさ、勝負の怖さを味わった。その時、初めて指導者になれた」と語る。

 同年秋、東北大会で優勝、翌年には甲子園出場。春、夏、春の3期連続、甲子園出場の夢を果たした。

 抱負は「全国制覇」。今年の試合で甲子園で優勝するために何が必要か分かった気がしたという。指導者に取って大事なことは「子どもたちを諦めさせない、自分自身も諦めない。そして最終的に勝つことを諦めさせないようにすれば子どもたちはついてくる」と言う。来春、紫紺の優勝旗を青森に持ち帰るために。

(2000.09.27 民団新聞)



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