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在日3世の関取・厳雄



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3月場所で引退
出自隠さず、各界に15年
「現役」の願いもケガに泣く

 大の男がおのれの力と技で体ごと相手にぶつかってゆく。衝撃3トンとも言われる力勝負の大相撲の世界に、在日同胞三世の関取がいた。しこ名は巌雄(がんゆう)。本名は李建司(30)という。今年の3月場所で現役から引退したが、在籍15年間の通算戦績は、400勝382敗46休で、西前頭筆頭が最高位だった。現在は年寄として後進の指導に当たっているが、2001年1月28日には、東京・両国の国技館で引退断髪式披露大相撲が開かれる。

 相撲部屋の稽古は朝6時には始まる。10月上旬のある日、東京・江東区清澄の北の湖部屋では、巌雄が後進に稽古をつけていた。四股を踏む者、ひたすら柱に手を打ちつける鉄砲と呼ばれる稽古に汗を流す者、立ち会いから本番さながらに対戦する者、熊のような男たちの裸体から汗がしたたり落ち、荒い息づかいは途絶えることがない。

 鬢付け油の甘い匂いとは裏腹に、ピリピリした雰囲気が道場を包む。絵に描いたような男の世界が目の前に広がる。そこへ何度も巌雄の声が飛ぶ。「もっと腰をおろせ」「集中力を高めろ」「勝ち相撲をイメージしろ」。


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 巌雄は兵庫県姫路市の出身だ。小学生の時から人一倍からだが大きく、地元では評判になっていた。その噂を聞きつけて、すでに高学年の時には各相撲部屋からスカウトも来ていたという。本人はテレビの大相撲中継にかじりつくほどのファンではなかったが、将来は力士になると思っていた。中学校に相撲部がなかったので、社会人の相撲クラブに足を運んだのもそのためだ。

 中学卒業の年に上京し、北の湖部屋での生活が始まった。力士になるための体格の基準、身長173p以上、体重75s以上は難なくクリアしたとしても、まだあどけなさの残る15歳の少年だ。ホームシックに悩んだのではないのだろうか、との問いに「そんな気持ちにはならなかった。早く強くなって土俵に上がることだけ思っていた」と振り返る。むしろ戸惑ったのは食事で、カレーにも丼物にもキムチを入れて食べる食生活を送っていた建司少年は、キムチのない食事がこたえた。

 力士は全部で800人余りいるが、そのうち十両に入ることができるのは26人。その上の幕内のワクは40人という狭き門だ。幕下まではとんとん拍子にあがり、三段目になったのは、18歳の頃だった。十両には21歳でなったものの、両ひざのけがでじん帯が伸び、骨の形が変わった。2度の手術を経て3年間は下位の生活を送った。

 現役時代の得意技は、185p、172sの体躯(たいく)をいかした左よつ寄り。幕内にあがって3場所目、番付の中堅どころでいきなり横綱貴の花関と結びの一番で対戦することになった。熱い血がたぎったが、初対戦は負け相撲に終わった。しかし、本人にとって一番印象に残る大一番になった。

 けがでやむなく引退したが、相撲生活15年で得たもの、それは親兄弟よりも長く一緒に暮らした兄弟弟子たちとの揺るぎない友情と礼儀作法だ。息子が生まれたら必ず相撲を取らせると決めている。


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 引退を告げた時、決して人前で泣くことがない父親が電話口で泣いているのがわかった。父は「よく頑張った」と息子をほめたという。どこでもアボジ、オモニ、イモ、ハンメで通す。韓国人であることを隠さない。長野冬季五輪では自ら申し出て韓国選手団のプラカードをもって入場行進をした。在日であることでの取材も快く受けた。大阪場所の時は兵庫県内の先祖の墓参りを欠かさない。

 巌雄は11月の九州場所を終えると、断髪式披露大相撲を年明けに控えている。関取で通算30場所を務めた力士にのみ許される晴れの土俵を前に、控えめな巌雄が「ぜひ見に来てほしい」と笑った。入場券の問い合わせは電話、FAXともに03(3630)0744へ。

(2000.11.01 民団新聞)



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