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新学期をどう迎えますか



 21世紀が始まり、はや2カ月が過ぎようとしています。この寒さが日ごとに和らいでいくと、新学期の春を迎えます。

 新世紀の始まりの年に小学校に入学する子どもたちのなかには、阪神大震災直後に産声をあげた子どももいるはずです。

 親にしてみれば、就学というのは子どもの成長を喜ぶ一つの節目です。子どもにしてみれば、親の庇護から少し離れ、広い社会というものに接する初めての機会と言えるでしょう。担任の先生と同級生に囲まれたクラス、それに上級生というタテの関係、親子ともども新しい環境への期待と不安を抱え、毎日を送っていることと思います。


■名前を使い分ける酷な行為

 さて、1985年の日本国籍法の改定により、在日同胞の出生者数は年間約5000人ペースと半減し、その数字から推定すると、同胞の小学新入生もその位でしょうか。

 その子どもたちの圧倒的多数は、日本全国に4校しかないという韓国学校の物理的な実情もあって、日本の学校に通わざるを得ません。そこで問題になるのが名前です。胸につけられるのは、本名の民族名の名札か、日本名の名札のどちらでしょうか。

 本名であれば、その子どもは外国人とみなされます。違いを違いとして受けとめる度量の広さが、先生をはじめとした日本の教育現場にあれば、共生社会のシンボル的な存在になっていくことでしょう。

 しかし、日本名であれば、同胞でありながらも日本人の子どもとして扱われます。家庭で民族意識を植え付ける取り組みがあれば別ですが、本人もみんなと変わらない日本人と思いこんで生活していくでしょう。ここに問題の根元があります。

 日本名の子どもは大きくなるにつれて「韓国人か日本人か」という葛藤に直面していきます。あげくに韓国や韓国につながる一切のものを否定したり、出自を重い荷物のように煩わしいととらえることにもつながりかねません。かけがえのない子どもに、本来一つしかない名前を2つも与え、使い分けさせる行為は、酷としか言いようがありません。それは2世の親が過去に味わった共通体験ではないでしょうか。


■日本社会に共生のメッセージを

 最近の地方参政権論議で気になるのは、日本人と同じように暮らしている永住外国人の生活実態を故意に無視して、外国人をことさらに危険視する風潮です。石原都知事の「三国人」発言も同じ脈絡で使われています。もしも在日同胞70万人がすべて本名を名のったとしたらどうでしょう。いわれなき偏見は確実に解消されていくのではないでしょうか。参政権問題も身近な隣人の問題として理解され、実現が早まると考えるのは早計でしょうか。

 本名を名のるといじめの対象になるのでは、と危惧する声を聞きます。確かに排他的な日本の土壌では、一筋縄ではいかないこともあるでしょう。しかし、あきらめていては何も解決しません。まずは親自身が本名の子どもを支えていく、親同士のネットワークをつくる、ありのままの「在日」で生きられるように教育現場に働きかけるなど、できるところから着手しましょう。

 教育委員会に永住外国人児童・生徒のための教育方針策定を働きかける親がいます。日本の教壇に立ち、多文化共生のメッセージを送る親もいます。日本の地に半世紀以上も存在しながら、日本名によって透明人間のような不透明なまま生きるあり方からもう脱するべきです。次世代に不要な日本名との決別を、新学期を契機に考えてみればどうでしょうか。

(2001.02.21 民団新聞)



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