民団新聞 MINDAN
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南昇龍さんの訃報に接して

寄稿・寺島善一(明治大商学部教授)



金メダルの孫基禎氏(左)と
ともにベルリン五輪マラソンの
表彰台に立つ南昇龍氏

 南昇龍さんは1936年のベルリン五輪のマラソンに出場され、堂々の3位入賞を果たし、銅メダルを獲得された。孫基禎さんの優勝とあいまって、韓国・朝鮮の人々の喜びはいかばかりであったか、想像を絶するものがある。この2人の快挙は、植民地支配されていた韓国・朝鮮の人々の暗い鬱屈とした気持ちを晴らし、民族の誇りを自覚させたことであろう。

 南昇龍さんは、1936年当時は明治大学政治経済学部の学生であった。オリンピックの日本国内予選を、孫さんと共に圧倒的な強さで勝ちあがったのにもかかわらず、理不尽にも現地ベルリンで孫さんと共に再度のフルマラソンの予選を課せられた。今日のマラソン界の常識では考えられない状況下で、孫さんと共に得たマラソン銅メダルの価値はずっしりと重い。

 この南さん、孫さんの偉大な業績をたたえて、明治大学リバティ・タワー23階には、ベルリン五輪当時のニュース、写真などが展示されている。この展示を注意深く見ると、レース直前まで、孫さんも南さんも日の丸のついたユニフォームを着ていないことがわかる。孫さんは白の無地のトレーナー、南さんは胸にMのついた明治大学のシャツを着ている。

 孫さんに過日、お伺いした話では、日の丸のユニフォームは必要最低限だけにしたかったとのことであった。奇しくも、南さんも同じ思いであったのであろう。

ありし日の南昇龍氏

 「消えた日の丸」事件で、孫さんに様々な圧力がかかった時、「日本へ来い。明治大学へ来い」と暖かい手を差し伸べたのは、南昇龍さんであった。

 その後の韓国スポーツ界の発展は、ソウル五輪で開花した。テレビカメラの前で、孫さんと南さんが楽しげに語らう姿は、平和な時代が到来し、韓国の人々がスポーツを楽しむことができるようになったことを祝福しているかに見えた。両者は辛い体験の恩讐を越えていたのであろうか。

 明治大学および明治大学競走部への南さんの貢献に感謝して、山田雄一学長から弔電が打たれたことは言うまでもない。

(2001.03.07 民団新聞)



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