民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
21世紀の民族教育を見つめて

民族学校の現場から<31>



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私の長田奮闘記
鄭恵旭(神戸韓国学園・韓国語担当)

 新長田に位置するわが神戸韓国学園は、民団西神戸支部が主軸になって運営してきた西神戸唯一の民族教育機関であり、韓国語7クラス、韓国文化4クラスを有し、2000年の登録生徒数は延べ200人を越える。

 わが神戸韓国学園の生徒たる資格は2つある。それは年齢ではない。性別でも、学歴でもない。民族機関であるにもかかわらず、国籍でもない。それは、韓国への好奇心を持っており、根気よく続けられることと、在日の多い西神戸の地で、韓国学園を通じて隣同志の輪をつくり出そうと思っていれば充分である。ほかは、ほんまに安い授業料と生徒会費を納めればよいのだ。

 私はこの2年半の間、そこの韓国語教師であった。しかし、日本留学に来る前は、いや、神戸韓国学園を知るまでは、「民団」とか「在日」とか、「韓国学園」とかの存在は私に無縁だと思われていた。灘の六甲台では「先生」を夢見る若くて貧乏な一人の留学生にすぎないのに、今や長田に行けば、「呉先生」と呼ばれている。

 1998年8月の中旬に学園長・理事長との面接に、私はいつものように遅刻してしまった。でも何かの縁があり、飢えた多くの留学生の中で選ばれ、学期中のいわばリリーフとして、9月から急きょ登板した。

 教室に行ってみると、在日韓国人と日本人、男女老少の混成の生徒がそれぞれ何かを求めて、時には暖かく、時にはじっくりと私を見つめ、私は圧倒されそうになった。

 たかが韓国語の学習会だけれど、私はもう立派な先生の振りをせざるをえなかった。それから数々のできごとがあり、そのたびに私は大小の失敗をくり返しながらも、今日までやってこられたこられた。

 人間として未熟な私を支えつづけてくれたたくさんの方々との縁が、それほど重かったからであろう。

 1999年度の新学期から私は主任教師に就き、学園の運営全体を調整する立場になった。まずは、生徒会の力を借りて、春の野遊会や秋の修学旅行など、一度はとぎれた学園の行事を立て直し、生徒同士の、また、学園のきずなを作り出そうとした。

 また、似合わないコメディアンのマネをしてでも授業を楽しくすることに努めた。その結果、生徒もまた増えだし、文化祭やスピーチ大会などで優秀な成績をあげるなど、学園には和気あいあいさがもどってきたように見えた。

 しかし、他の韓国学園と同じように、わが学園もいろんな問題をかかえている。財政や広報の問題はさておいても、せっかく韓国語学習をはじめようとした在日や日本人の方々がすぐにあきらめてしまうことは何よりももったいない。私はそのために、積極的に韓国の音楽や映画などを使ったり、クラスを分けたり、増やしたり、さまざまなくふうをした。

 それで、外見上の神戸韓国学園の2000年度は1回り大きくなったが、その内実までにはまだ自信がない。自分は精を尽くしたつもりだが、やり残したことはわが学園の情熱的な若き先生方と民団と生徒会の皆さんに託すしかない。

 数え切れないほどの思い出で後ろ髪が引っ張られそうだが、「去る時を知って去る人の姿は美しい」という韓国の詩がある。私も、先生を夢見る留学生人生の里程標にもどる時間である。しかし、ここでの経験と、ここでだからこそ出逢えた方々との因縁の重さを忘れることはないだろう。

(2001.04.11 民団新聞)



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