民団新聞 MINDAN
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歴史教科書問題特集−5

検定意見がついた「つくる会」
「教科書の主な記述と修正内容



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拭えぬアジア蔑視
未来志向の韓日関係に逆行

 戦前に復古するかのような印象を与え、多民族、多文化共生社会を目指す流れに逆行するものと民団が批判してきた「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・西尾幹二電気通信大教授)の2002年度版中学歴史教科書が4日、文部科学省の137カ所にわたる修正意見を取り入れて検定に合格した。当初の申請図書の何が変わり、何が変わらなかったのかを検証した。


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植民地支配の反省なし

 アジア太平洋戦争について検定後も「大東亜戦争」と呼んでいる。これは日本による侵略戦争の事実を否定したものといえよう。一方で「アジア解放戦争」との記述を繰り返し、先の戦争を肯定・美化している。

 アジア太平洋戦争が「アジア解放戦争」ではなかったことはこれまでの歴史研究ですでに明白。仮に「解放戦争」であったなら、日本の植民地支配下にあった韓国、台湾を真っ先に独立させていたことだろう。

 韓国併合・植民地支配への反省もなく、むしろ美化している。アヘン戦争のくだりでは、欧米列強の進出という情勢に韓国が何の対応もしなかったかのように記述。これについてはなんらの検定意見もつかなかった。結果的に日本が中国、韓国を欧米列強から守ってやったかのようだ。韓国、中国への蔑視が全体を通して感じられる。


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「近隣条項」あいまいに

 今回、検定にあたっては基本的に「近隣諸国条項」が適用されなかったという。文部科学省は「近隣諸国条項」について「漠とした基準でどうなおしたらいいのか分かりにくい。検定意見の背景には近隣諸国条項があるが、出版社に伝えるときには分かりやすいように全体のバランスや誤解を招く表現といった言い方をした」と話している。

 「近隣諸国条項」が適用されるようになったのは、1982年に教科書検定による侵略の事実のいんぺいに対して起こったアジア諸国からの抗議がきっかけだった。当時の文部省は、教科書検定基準に「近隣のアジア諸国との間の近現代史の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から配慮がされていること」との文言を付け加えた。

 さらに最近では1995年、村山首相談話でアジア諸国に与えた「多大の損害と苦痛」に対しお詫びと反省をした。98年の韓日共同宣言でも「両国民、特に若い世代が歴史への認識を深めることが重要」との認識で一致している。

 少なくとも「つくる会」の教科書にはこれら日本政府としての国際公約に明白に違反する内容が含まれていることから、韓国、中国をはじめとする近隣諸国からの反発は当然といえよう。

 「内政干渉」というには無理がありそうだ。


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採択阻止へ世論化急ぐ

 各社の見本本が出てくるのは5月10日以降となる。ここから各地での採択が決まる7月までが「全体の山場」となりそうだ。

 「つくる会」では全国で10%、十五万冊の採択を目指している。これに対して、「つくる会」の歴史・公民教科書を「あぶない教科書」と批判している市民団体「子どもと教科書全国ネット21」では「一冊たりとも学校現場で使わせない。世論をどう作れるかどうかが勝負」と見ている。

 同ネットの俵義文事務局長は「仮に10%の採択を許せば、政府だけでなく私たち日本人が批判されるだろう」と危機感を募らせている。



検定意見がついた「つくる会」教科書の 主な記述と修正内容
修正前の申請本 検定後の記述
【江華島事件・日朝修好条規】
 一方、これに先立って、日本軍艦が朝鮮の江華島付近で朝鮮軍と交戦した事件(江華島事件、1875年)をきっかけに、日本は再び朝鮮に国交の樹立を強く求めた。清朝が朝鮮に日本との国交交渉の開始を許可した結果、1876年、日朝修好条規が結ばれた。こうして、長らく懸案であった朝鮮との国交問題も解決した。(日朝間の交戦の事情が説明不足で理解しがたい表現である)  一方、これに先立って、日本軍艦が朝鮮の江華島で測量をするなど示威行動をとったため、朝鮮の軍隊と交戦した事件(江華島事件1875年)をきっかけに、日本は再び朝鮮に国交の樹立を強く迫った。  その結果、1876年、日朝修好条規が結ばれた。これは朝鮮側に不平等な条約だったが、長らく懸案であった朝鮮との国交が樹立した。
【韓半島と日本の安全保障】
 修正前の申請本−この日本に向けて大陸から一本の腕が突き出ている。それが朝鮮半島だ。朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば、日本を攻撃する格好の基地となり、後背地を持たない島国の日本は、自国の防衛が困難となる。この意味で、朝鮮半島は日本に絶えず突き付けられている凶器となりかねない位置関係にあった。(先行する記述との関連で、この時期における認識であったことが理解しがたい表現である)  検定後の記述−(略)後背地をもたない島国の日本は、自国の防衛が困難となると考えられていた。
【韓国併合】
 修正前の申請本−朝鮮半島は戦略的には重要だが、軍事的には不安定だった。イギリス、アメリカ、ロシアの3国はいずれも支配を狙っていたが、実際に統治を維持するのは困難であると考えていた。自己負担はさけたいが、他の2国のどちらかが統治するのは困るという地域に対し、統治者としての新興国・日本の登場は、3国にとっては好都合であった。日露戦争後、日本は韓国に統監府を置いて、支配権を強めていった。1910(明治43)年、日本は韓国を併合した(韓国併合)。これは、東アジアを安定させる政策として欧米列強から支持されたものであった。韓国併合は、日本の安全と満州の権益を防衛するには必要であったが、経済的にも政治的にも、必ずしも利益をもたらさなかった。ただ、それが実行された当時としては、国際関係の原則にのっとり、合法的に行われた。しかし韓国の国内には、当然、併合に対する賛否両論があり、反対派の一部から激しい抵抗もおこった。(朝鮮半島をめぐる各国の動静について、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げている)(日本の韓国併合時に欧米列強が併合への支持を表明したかのように誤解するおそれのある表現である)―このほかにも検定意見三件  検定後の記述−日露戦争後、日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。日本政府は、韓国の併合が、日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。イギリス、アメリカ、ロシアの3国は、朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので、これに異議を唱えなかった。こうして1910(明治43)年、日本は韓国内の反対を、武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)。韓国の国内には、一部に併合を受け入れる声もあったが、民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり、その後も、独立回復の運動が根強く行われた。  韓国併合のあと、日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い、土地調査を開始した。しかし、この土地調査事業によって、それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく、また、日本語教育など同化政策が進められたので、朝鮮の人々は日本への反感を強めた。
【三・一独立運動】
 修正前の申請本−一方、朝鮮では、1919年3月1日、日本からの独立を求める運動が始まり、全土に広まった(三・一独立運動)(独立運動全体の状況が記述されておらず、その実態について理解し難い表現である)  検定後の記述−一方、朝鮮では1919年3月1日、旧国王の葬儀に集まった知識人らがソウルで独立を宣言し、人々が「独立万歳」を叫んでデモ行進を行うと、この独立運動はたちまち朝鮮全土に広まった(三・一独立運動)。朝鮮総督府(日本が朝鮮支配のために置いた統治〔とうち〕機関)はこれを武力で弾圧したが、その一方で、それまでの統治の仕方を変えた。
【戦争の目的・実態】
 修正前の申請本−日本の戦争目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして、「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。(自存自衛とアジアの解放を目的として戦われた戦争の実態について、説明不足で理解しがたい表現である)  検定後の記述−日本の戦争目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして、「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。
【強制連行・皇民化政策】
 修正前の申請本−大東亜戦争の戦況が悪化すると、国内の体制はさらに強化された。労働力の不足を埋めるため徴用(政府の命令で指定された労働を義務づけられたもので、植民地である台湾・朝鮮へも適用された)が行われ、また、中学3年以上の生徒・学生は勤労動員、未婚女性は女子挺身隊として工場で働くこととなった。また、大学生や高等専門学校生は徴兵猶予が取り消され、心残りをかかえつつも、祖国を思い出征していった(学徒出陣)。(台湾や朝鮮の状況についてほとんど触れられておらず、全体として調和がとれていない)  検定後の記述−(略)。このような徴用や徴兵などは植民地でも行われ、朝鮮や台湾の多くの人々にさまざまな犠牲や苦しみをしいることになった。このほかにも、多数の朝鮮人や占領下の中国人が日本の鉱山などに連れてこられて、きびしい条件のもとで働かされた。また朝鮮や台湾では、日本人に同化させる皇民化政策が強められ、日本式の姓名を名乗らせることなどが進められた。


(2001.04.11 民団新聞)



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