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4/28から朝鮮通信使・特別展

21世紀の善隣願い、京都で



羽川藤永「朝鮮人来朝図」(個人蔵)

 韓国と日本の善隣友好の使者として江戸時代に12回来日した朝鮮通信使の足跡をたどり、21世紀の新たな韓日関係を見つめ直すために企画された特別展「こころの交流―朝鮮通信使」が28日から6月3日まで、京都・中京区の京都文化博物館で開催される。豊臣秀吉の壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)によって多大な被害を被った韓半島。征夷大将軍となった徳川家康は、日本と韓半島にできた深い溝を埋めるため、善隣友好の外交に力を注いだ。それから後、江戸時代200年に12回の朝鮮通信使が訪れ、華やかな交流が行われた。


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華やかな交流を再現
絵巻や工芸品、重要文化財も

 「鎖国」で知られる江戸時代だが、実際には4カ国との交渉を行っていた。長崎ではオランダ、中国との通商貿易が行われ、琉球国は薩摩藩の属国として国際関係を持っていた。中でも朝鮮朝は将軍と国書が交換できる唯一の国家として、三国に比べてより密接な関係にあった。

今井町本「洛中洛外図屏風」

 家康が韓国との友好回復に努め、そのあかしとなった通信使は1607年(慶長12年)、呂祐吉を正使とする400人以上の一行の初来日から1811年(文化8年)までの12回にわたって、政治・経済・文化の交流使節団として日本との友好関係を築いた。

 通信使は新将軍の代替わりやそのほかの慶事を祝賀するため来日した外交使節団。

 その規模は毎回、総勢約300から500人、正使、副使、従事官、そして第一級の学者、文人、医者、画家、楽士などが加わり文化交流が行われた。

 一行は六隻の通信使船に分乗し、ソウルから釜山を経て対馬に上陸した。対馬では対馬藩主宗氏の「対馬御座船」に先導され壱岐に向かった。この時、護行役の対馬藩士はおよそ800人にも及んだという。築前藍島―下関―蒲刈―大阪淀川を経て京都の淀で上陸した一行は、陸路で約26日間かけて江戸に入ったともいわれる。5カ月から8カ月も日本に滞在する長旅となった。

 一行の食事は、朝夕は本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜をつけた「七五三」の膳、昼は「五五三」の膳の豪華なメニューで接待された。これらは幕府の通達によって細かく決められ、幕府が厚遇したことを証明している。

 通信使一行に対する関心は、文人ばかりでなく一般民衆までにおよび、沿道を人々で埋めた。

狩野益信「朝鮮通信使歓待図屏風」

 華やかな一行の行列は、狩野派の絵師たちや町絵師たちの多くの作品に残されている。このほかにも屏風や絵巻、浮世絵、版画、墨蹟、筆談唱話集などが残されている。

 また、学者たちは客館に押し寄せ、詩文の唱和や筆談によって韓国の歴史や文化、風俗習慣などを尋ねるなど、通信使に対する期待と関心は高かった。

 特に医学の面では、日本にオランダ医学が普及するまで朝鮮の「医方類聚」「東医宝鑑」などは必携の書となった。

 国交回復した後、1618年(元昭4年)、釜山に海外居留地の「倭館」(和館)が設けられ、常時四百から500人の日本人が交代で駐在し、外交交渉と貿易業務に携わった。

 しかし、12回におよんだ通信使の来日も、幕府が1回の接待に投じた5万両といわれる巨額の費用と、通信使の各藩主への贈答品の負担から両国の経済状況が圧迫、1811年(文化8年)、最後の通信使が対馬に到着し、200年におよんだ交流に幕が落とされた。

 京都の通信使展では、韓日所蔵物(重要文化財四点含む)から往時を偲ぶ通信使に関連する文物や絵画、工芸品、踊りや料理などが総合的に展示される。

朝鮮通信使の行程

 時間午前10時から午後6時。入場料一般1200円、大・高生800円、中・小生500円。

 問い合わせは、京都新聞社企画事業部(075-241-5988)、京都文化博物館(075-222-0888)。

(2001.04.18 民団新聞)



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