民団新聞 MINDAN
在日本大韓民国民団 民団新聞バックナンバー
21世紀の民族教育を見つめて

民族学校の現場から<番外1>



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土曜学校のリーダー
白宣基(在日YMCA土曜学校講師)

 在日本韓国YMCAの「土曜学級」ではキャンプが大きな目玉になっている。その名も「韓国YMCA土曜学級―ともに生きるキャンプ」。昨年のサブタイトルは「ピビンパキャンプ」だった。

 「ともに生きる」にしても「ピビンパ」にしても、そのねらいは「多文化共生」だ。

 年若い在日韓国人の友人たち(YMCAでは「メンバー」と呼ぶ)に「民族教育」なるものをほどこしていると言うと大層なことになってしまうが、ここでは「民族教育」というものにたずさわっている大人の側(YMCAでは「リーダー」と呼んでいる)について考えてみたい。

 今年度の土曜学級のリーダー構成は、在日韓国人(3世)2人、日本人2人、韓国からの留学生2人であった。年齢は20代から30代前半、性別は半々ずつ。

 韓国からの留学生は皮膚感覚としての現代の韓国の文化を、「韓国人らしい」韓国人になってくれという熱意でもってメンバーに伝えようとする。が、いかんせん言葉の問題があって、その熱意が空回りしてしまうことがある。在日韓国人のリーダーは、「韓国人らしい」とは何か、「韓国人らしく」ないといけないのかとの反問を投げかけたい。

 日本人のリーダーは、日本と韓国を対比させる素晴らしい感覚と韓国そのものに対する好奇心はあっても、なぜ日本人である自分が在日韓国人のメンバーに対する場に定期的に来ているか、その意味(意義か)に気づかない。

 すると在日韓国人リーダーは日本人リーダーに、「あなたはここにいて何に気づいたか、何ができたか」と物足りなさをつのらせ、返す刀で韓国人留学生リーダーにも「韓国人らしいとはどういうことか」と、これも一言では答えられないような違和感がらみの不満を持つ。

 三者は三者なりに互いの背景となるものが違っているからこそ敬意を払うべきと、それはさすがに理解しているから、修復不可能な結果に終わるケンカにまではならない。しかし、折にふれその場の話題に事よせて議論に発展する。

 議論そのものの結論はいっこうに出る気配はないが、そういったリーダー同士の対立、と言うとキツすぎるなら切磋琢磨しあうリーダーたちの姿を見ながら、メンバーやリーダーたちがそれぞれなりに考える場所を「土曜学級」が提供していることだけは間違いないと思う。

 在日の日は日本社会の日、韓国の韓は母国でない祖国としての韓国の韓、「3人よれば文殊の知恵」で、いろんな具と香ばしい飯をグッと引き締めるコチュジャンのようなリーダーでありたいなあ、と思ったりもする。すると「民族教育の現場」は共生社会にとって大切な「どんぶり」か。「縁」が欠けないようにしたいものである。

(2001.05.16 民団新聞)



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