民団新聞 MINDAN
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山陰線大難所のトンネル工事

同胞の足跡を追って<上>



架橋工事に同胞がかかわった餘部鉄橋

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日本人より多く従事
「併合」以前から渡日の事実

 日本海を臨む兵庫県浜坂町のとある寺に明治時代、山陰線の鉄道工事に携わった韓人労働者らが造ったレンガ塀があると聞いて、私の胸はざわめいた。

 私が余部(あまるべ)鉄橋(JR駅は餘部と表記)の架橋工事に同胞がかかわっていると教えてもらい、当地まで足を運んだのは18年も前のことだったが、それにまつわる「レンガ塀」のことなど全く聞きもしなかった。私はさっそく浜坂を再訪することにした。

 JR大阪駅午前9時33分発の特急「はまかぜ1号」に乗車すると、ちょうど午後1時過ぎに餘部鉄橋にさしかかる。

 急に視界が開け、眼下の集落と碧い日本海を臨む景色は実にすばらしく、また鉄橋を走るのはまるで空中を飛ぶような爽快感がある。と同時に怖い感じもしないではないのは昔も今も変わらない。

 この鉄橋は高さ約41メートル、長さ約310メートルという、当時としては東洋一の大鉄橋であり、現在は観光スポットとなっていて全国から見学に訪れる人も多い。

 鉄橋を渡り終えると今度は桃観(とうかん)トンネルを潜ることになる。暗くて長いトンネルで、通り抜けるのに3分近くも要した。このトンネルは山陰本線中、最も長いトンネルで全長1841メートルもある。「桃観」とはいかにも風雅な名称だが、『山陰名勝の栞(しおり)』によれば元来は「股(もも)うずき峠」といい、この峠を越えると股が激しく痛むという意味だそうで、股を桃に言い換えたらしい。この難所である峠の下をぶち抜いたのが桃観トンネルなのである。

 当時の山陰線、京都・出雲間が開通できたのは実は大難所といわれたこの桃観トンネル(1908年着工)と餘部鉄橋(1909年着工)の完成(いずれも1911年2月竣工)が鍵を握っていた。

 もともとこの鉄道線は当初、陸軍第10師団が置かれた兵庫県の姫路から鳥取市を経て朝鮮・ロシアを望む鳥取県の境港までを結ぶ山陽・山陰連絡線として計画されたが、1900年に山陰縦貫線に変更された。

 いずれにしても朝鮮争奪をめぐって近々に予想されるロシアとの戦争(1904〜05年)に対処するための軍事目的の鉄道線路であった。

 明治の鉄道戦略は「経済上より軍事上を主眼とすべし」(谷干城軍部議員)として日清戦争後、軍部の要求する方針に沿って進められていた。

 私が特に餘部鉄橋と桃観トンネルに触れたのは2つのことを言いたかったからである。

 その1つは、この難所の工事には韓人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)が集中的に投入されたこと。

 2つ目は、一般に韓人が渡日するようになったのは1910年の「日韓併合」以降のことだと思われていたが、既に併合以前から日本の鉄道工事現場で多数の韓人労働者が働いていたことだ。

 その嚆矢は九州の肥薩線(鹿児島本線)で、1906年から09年の間、100人ほどの韓人労働者が働いたということである。

 この山陰線工事には果たしてどれほどの同胞が働いたのか知りたかったが、確かな記録が残されていないので、未だその人数を確定するのは難しいらしい。ただ日本人より韓人労働者の方が多かったようだ。

 また工事期間中は「日韓併合」と前後していた時期なので空気も不穏と感じたのか、主任技師は拳銃を携帯していたという。しかし、韓人たちは日本人よりよく働いたとの評価が高い。トンネルの完成は近辺の住民にとって、それまで徒歩か船による交通手段しかなかったのだから、多大な恩恵をもたらした。

 それを反映してか、トンネルの両口には当時、鉄道院総裁だった後藤新平揮毫の「惟徳罔小」(この徳は少なくない)「萬方惟慶」(全ての人がこれを慶ぶ)という石額が掲げられた。


尹達世(フリーライター)

(01.09.12)



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