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尹達世(フリーライター)



アーチ型赤レンガ塀残る西光寺

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韓国人労働者が建築
犠牲者追悼の住職に返礼

 桃観トンネル西口の久谷八幡神社に『鉄道工事中/職斃病没者/招魂碑』と刻まれた大きな自然石の石碑が建っている。

 台石を含めると高さ3・5bほどもある。その石碑の裏面に工事中に殉職、病死した27人の姓名が刻まれているが、その中に7人の同胞の名も刻まれている。

 この碑は1911(明治44)年10月1日の建立とあるから、工事の完了した年の秋には早くも建てられたことが知れ、それから90年にもなるのにその刻まれた字は深く、現在でも驚くほど鮮明に見てとれる。

 また石碑には建立の由来と発起人21人の姓名も刻まれている。それによると山陰西線(兵庫県香住〜鳥取県青谷)のうち、餘部から居組までの鉄道工事や鉄橋架橋工事で犠牲になった人々を慰霊するために建てたもので、発起人たちが当時のお金で100円を積み建て、その利息で毎年4月に追薦式を行うようにするもの、とある。

 特に異国で亡くなった韓人労働者にとっては貧しい上に身寄りもなく、満足な葬儀もできなかっただろうことを考えると、近辺の村人たちの民族を超えた善意を感じる碑である。

 これらのことは既に兵庫県下の同胞研究者らが調査し、『兵庫と朝鮮人』(85年発行)や、今年発刊された『兵庫のなかの朝鮮』(明石書店発行)に記述されているのでご存じの方も多いのではないかと思う。

 桃観トンネルを潜り抜け、久谷駅を通過すると、ようやく「はまかぜ」の終着駅、浜坂駅に達する。

 このたび浜坂を訪れたのは冒頭に述べたように、この工事にまつわる韓人労働者の記念物が西光寺に遺っているという話を聞きつけたからである。

 海辺近くにある西光寺には北側の塀として、がっしりした赤いレンガ塀が連なっていた。その長さ約24b、高さは8面の塀それぞれ約150aから200a足らず、中央にはしゃれたアーチ型の出入り口まで設け、高さは塀より少し高く2bほど。東側にも長さ5bほど建てられ、L字型のレンガ塀となっている。

 実際に見るまではもっとささやかな壁だと思っていたが、予想以上に立派なレンガ塀だった。

 レンガ塀の存在を教えてくれた地元の中学校に勤務する岡部良一さん(54)や西光寺の小谷融旭現住職(51)に、なぜ韓人労働者たちが特に西光寺のためにレンガ塀を造ったのかを尋ねた。

 「先代から聞いた話ですが、祖父の超旭(ちょうぎょく)はトンネル完成後、工事で犠牲になられた人のため、追弔会をしたと聞いていますから」と融旭住職は言い、岡部さんは「民族の区別なく、亡くなった人の弔いをしてくれた超旭住職にお礼として建築したものでしょう。アーチ型の門は近辺には見られないセンスあるもので、むしろ朝鮮によく見られるもの型式でしょ。おそらく日本人も協力したでしょうが。とにかくそのように言い伝えられています」と教えてくれた。

 そういえばトンネル口は馬蹄形をしているが、レンガの門はきれいなアーチ型である。

 西光寺という寺は1910(明治43)年、寺内に「仏教日曜学校」を開き、その日曜学校は1922(大正11)年、敬愛幼稚園に発展した。近辺の子供たちはほとんどこの幼稚園を巣立って行き、岡部さんもその卒園者だという。

 日曜学校を開いたのが超旭住職という人で、宗教者の立場から教育に尽力し、浜坂町周辺では『徳人』として尊敬を受けた人物だとのことだ。なるほどそのような人柄ならでは、との思いがした。超旭住職の徳と韓人労働者の感謝を表す素朴な心の温かさを感じないではいられなかった。

 西光寺住職と同胞たちの国境を超えた交流はこれまでほとんど知られなかったエピソードであるが、浜坂に遺るレンガ塀はまさにそれを物語るモニュメントなのである。


(2001.09.19 民団新聞)



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